チェコ出身の亡命作家、ミラン・クンデラが亡くなりました。享年94歳。
私がクンデラに関心をもったのは、キューバのおかげ。
もう20年くらい前ですが、「キューバを理解したかったら、ミラン・クンデラの『冗談』を読むといいよ」と、キューバでキューバ人に言われたことがきっかけ。
帰国してすぐに読みましたが、読んでいて〈辛かった〉ことを覚えています。
以来『冗談』は読み返していないのですが、『存在の耐えられない軽さ』は読み返しました。
主人公のトマーシュとキューバ映画『低開発の記憶』のセルヒオを「似ている」と言う批評(スペイン語)を読んだから―。
映画ももう一度見たいなぁ。
ま、2人の比較はともかく、1本のキューバ映画が、私の小さな世界に様々な窓を開けてくれたのは事実で、クンデラの文学もそのひとつ。
そして、沢山の追悼記事の中で、「やはり」と思うクンデラの言葉がいくつかありました。
『低開発の記憶』との共通点、という意味の「やはり」です。
例えばー
El novelista enseña al lector a aprehender el mundo como pregunta. Hay sabiduría y tolerancia en esta actitud. En un mundo edificado sobre verdades sacrosantas, la novela está muerta. El mundo totalitario, básese en Marx, en el Islam, o en cualquier otro fundamento, es un mundo de respuestas, en vez de preguntas. En él no tiene cabida la novela.
作家は読者に世界を問いとして知覚(理解)させようとする。
この姿勢には、思慮と寛容がある。
至聖なる真実の上に築かれた世界では、小説は生きられない。
全体主義の世界は、マルクスにせよ、イスラムにせよ、何にせよ、回答の世界で、問いの世界ではない。その世界に小説の入る余地はない。
映画『低開発の記憶』の価値も、セルヒオの問いにあります。
追記(7月17日)
全体主義的な俗悪なもの(キッチュ)の帝国では答えはあらかじめ与えられており、いかなる質問も取り除かれている。そのことから、絶対的に俗悪なもの(キッチュ)の本当の敵は、質問をする人間である。
(中略)
だがいわゆる全体主義的な体制と戦う者たちは単に質問することと、疑うことによってのみかろうじて戦えるにすぎない。 「存在の耐えられない軽さ」より
「自分の感情を絶対的な価値に仕立てる、懐疑も反省もない無思考をずっと批判していました」
(作品の翻訳者としてクンデラと交流があったフランス文学者、西永良成氏のコメント)