ホセ・マルティの言葉と背景 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

先日紹介した映画『苺とチョコレート』
この映画がキューバ社会や人々の意識に画期的な影響を与えたことはマリオ・ピエドラ教授の解説にある通りですが、それも含めて本作には取り上げたいテーマが多々あるので、新たに「苺とチョコレート」という「テーマ・タイトル」を設けました。

 

第1回目は、映画に出てきたホセ・マルティの言葉
(友人の個展に対する当局の干渉に対しディエゴが抗議の手紙を投函するシーンに映ります)

 

Los débiles respeten, los grandes adelante: ésta es una tarea de grandes. José Martí

「弱腰共は慎め。偉大な者は前進する。それが使命だ」 (字幕より)

 

え?これってどういう意味?「弱者を敬え(大切にせよ)」じゃないの?
どうも腑に落ちないので、マリオ先生にメールで尋ねたところ、以下のような回答をいただきました。

 

「弱腰共は慎め」とは「使命は偉大な者たちが果たすから弱腰共は黙っていろ」という意味だ。

マルティは同じ文脈でさらにはっきりこう言っている。「自分を犠牲にする勇気のない者は、犠牲を払う者の前では恥を知り黙るべきである」と。

 

「ただし、この時マルティは戦争の準備をしていたという背景を押さえておかねばならない。彼は戦いを通してキューバの独立を達成しようという考えに突き動かされていた。だから、絶えず闘うよう呼びかけ鼓舞していたのだ」

 

「背景を無視してマルティの言葉が引用されることはよくある。まるで何にでも当てはまる絶対的なことを言ったかのように。或いは誤って引用されることもある。映画『低開発の記憶』で、『我々のワインは酸っぱい。だが我々のワインだ』とあったように。マルティはそうは言っていないのに、いつもそう引用されている。マルティは『我々のワインが、バナナで作り、もし酸っぱくても、それが我々のワインだ』と言ったのだ。彼が言わんとしたのは『我々は自分たちのものを使ってものを作るべきだ。もしそれで結果が悪くても、少なくとも我々のものなのだ』ということ。ところが引用を間違えると、まるで我々のものは常に悪いが受け入れねばならないと聞こえる。要するにマルティの言葉は「ナショナリスト」だが、引用がまずいと「ショービニスム」や「敗北主義」に転じてしまう」

 

う~ん、なるほど。確かにマルティの言い分は分かります。
でも、「弱腰共(弱い者)は口を出すな」を認めると、日本の場合は戦前・戦中の状況を肯定するようで承服しがたい。

 

アレア監督は、どういうつもりで〈あのシーン〉で〈このマルティの言葉〉を出したのでしょう?

  (私の考えは後でコメント欄に書くつもり)
皆さんはこのマルティの言葉をどう受けとめますか?

 

いずれにせよ、私が想像し怖れるのは「もし戦争になったら思ったことを口にを出せなくなるんだろうな」ということ。こうやって疑問を呈することも・・・。考えただけで息が詰まる。ヤダヤダ!