『苺とチョコレート』解説 マリオ・ピエドラ教授(ハバナ大学映画史) | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

 『苺とチョコレート』 マリオ・ピエドラ教授(ハバナ大学映画史)寄稿

 

90年代半ばにトマス・グティエレス・アレアとファン・カルロス・タビオが共同監督で撮った映画『苺とチョコレート』は世界各国で上映された。このキューバ映画としては異例な出来事の背景には「ミラマックス」が世界配給権を獲得した、という事実があった。

 

ともあれ映画は大好評を博したうえ、「キューバ映画で最初の批判的作品」と受けとめられた。すなわち、共産主義の島国の状況を批判した最初の映画という意味だが、それは事実とは違う。『苺とチョコレート』以前にも現実に対し批判的に取り組んだキューバ映画は数多くあったし、とりわけアレアとタビオの作品にそれは顕著だった。とはいえ、両者が共同でキューバの現実をダイレクトに批判した、という意味では最初の映画である。

 

『苺とチョコレート』は、長年に渡ってキューバ社会にはびこった不寛容を告発している。
本作が示す不寛容と疑心は人々に、とりわけ同性愛者の人々に悪影響を及ぼした。この映画では、そうしたホモの芸術家と若い学生との間に芽生える、稀有な友情が描かれている。学生は共産党青年同盟の一員だが、同組織はメンバーに対し“真の革命家”として考え行動すること、すなわち“新しい人間”になるよう要求する。

 

“新しい人間” とは、真の革命家のモデルとしてチェ・ゲバラによって提唱されたコンセプト。革命と一体化し、規律に服し、定められた任務に全身全霊で取り組む姿勢が求められる。
その倫理的行動に同性愛が入り込む余地はもちろんない。よって、“革命的青年”たるものは同性愛を嫌悪すべきなのである。

 

本作の青年は、偶然の出会いから“ホモ”の男をスパイする役目を負ってしまう。しかしホモの男が青年を誘惑する企みを諦めると、両者の間に“友好的な”関係が築かれていく。そして、芸術や文化とは全く無縁だった共産主義青年は、ホモの男の指南によってキューバの芸術や文化に開眼していく。と同時に、目の前の無欲で誠実な相手が、社会的・政治的偏見の犠牲者であることに気づく。

 

こうして共産主義青年のダビドとホモの芸術家ディエゴは真の友人になる。二人は性的志向こそ違えど、そのほかは大差ないことに気づく。しかもキューバへの深い愛と正義感を共有していた。ところが残念なことに、ディエゴはホモでリベラルな考えの持ち主であるがゆえに迫害され、祖国を捨てることを決断する。彼を取り巻く不寛容さに窒息寸前だったのだ。二人の親友同士は初めて抱擁を交わす。別れの抱擁を。

 

『苺とチョコレート』は、キューバ国民に非常に大きな衝撃を与えた。人口1100万人のキューバで、観客数が1年で200万人を超えた。その結果、同性愛やそれに対する嫌悪を国民レベルで認識するきっかけになったと言えよう。同性愛への嫌悪。それはキューバ人に特有な気質で、スペインをルーツとする文化と関連する。しかしながら『苺とチョコレート』以降、確実に変わった。本作のおかげで、我々は己をもっと批判的な眼で観ることを学んだし、キューバ映画は、より一層ダイレクトかつオープンに諸問題を提示するようになったのである。

 

                      

Marysolより

『苺とチョコレート』は日本でも1994年に岩波ホールで「エキプ・ド・シネマ20周年記念作品」として上映されました。幸い私もリアルタイムで見ましたが、当時はキューバ社会についてよく知らなかったので、1回見ただけでは理解しきれませんでした。

今回(以前シネフィルイマジカで放映した時の録画を)見直してみて、台詞だけでなく、背景に映る画にも様々な意味が込められていることに気づきました。

それを含め、『低開発の記憶』とだぶるシーンが多く、内容的にも“続編”と言えると感じました。

(ディエゴは当時セルヒオが考えていたことを率直に表現している)

というわけで、『苺とチョコレート』については、続けて読み解いてくつもりです。