写真展「Cuba in Revolution」に寄せて(デスノエス) | MARYSOL のキューバ映画修行

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【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

<ミサイル危機のとき、フィデル・カストロはキューバ国民の命を犠牲にしても構わないという決断を下しましたが、あなたはその時どう感じましたか?>


これは、映画『Memorias del desarrollo(仮題:超先進社会の手記/メモリアスII)』のなかで、日本人女性が主人公のセルヒオに投げかける(実は、私自身が聞きたかった)質問です。

<セルヒオの答えは映画を見てのお楽しみ>として、セルヒオの産みの親=

エドムンド・デスノエスだったら、どう答えるのか?
先月のハバナ映画祭の報告を兼ねたメールで訊いてみました。


すると答えに代えて、「Aperture」という雑誌に近々掲載される<キューバ革命写真展> に寄せたエッセイと共に、こんな返事が届きました。

*以下、「 」はデスノエスの言葉を引用。


「添付のエッセイを読めば、キューバの軍国主義、ゲリラ闘争(を広めたこと)が、キューバにおける社会正義の夢をいかに損なったか分かると思う。
チェは、キューバに社会主義を建設すべきだったのであり、失敗に終わる軍事的冒険に身を投じるべきではなかったのだ。」


          MARYSOL のキューバ映画修行-Cuba in Revolution

エッセイの内容を紹介する前に、このサイト の【Cuba in Revolution】の稿を読むと、60年代、フォトジャーナリズムが世界的に及ぼした影響力(キューバ革命の報道を含めて)について書かれています。
同写真展では、30人の写真家による180点以上の写真が展示されたそうですが、<政治から市民生活まで革命直後のキューバのバラエティ豊かな表情が、1968年を境に急速に萎んでいった>という指摘が気になります。


ただ、写真展の概要に対し、以下に紹介するデスノエスのエッセイの断片は、例のごとくシニカルなトーンで、主に「写真が映し得なかった」ことに言及。
それは「夢」の裏に潜んでいた「悪夢」であり、「月の裏面」、革命の「両義性」・・・


「キューバ革命:当時と今」と題する彼のエッセイは、「かつて自分が深くコミットした激動の世界の写真を、40年の歳月を経て見ると、啓示的な発見がある」という言葉で始まり、「(写真が切り取る)決定的な瞬間の意味は、時間と共に変化する」ことを指摘。
さらに、写真展の感想を「月並み」と切り捨て、もっと「思わず立ち止まって、考え込むような写真」を求めます。


そんな彼が求める写真の例として挙げられているのが、「Lee Lockwoodの写真」。「3人のキューバ人労働者が最高司令官の大看板を持ち上げている。鑑賞者には、彼らがフィデルを持ち上げているのか、あるいはフィデルに押し潰されそうになっているのか分からない」。

MARYSOL のキューバ映画修行-デスノエス
「イメージを読むときには、コンテクストが重要だ。私は60年代に自分が体験したことを思い出し、当時の盲目的な取り組みについて今じっくり考えてみることで、全体を見通せるようになった。キューバ革命は、反逆と社会正義の夢を振りまくと同時に、欠乏と抑圧という現実をもたらした。ゴリアテの圧倒的な力と対決するダビデとなった。60年代に生まれ具現化した夢は、世界を核戦争の淵に追いやり、百万ものキューバ人を世界中に離散させた。ディアスポラ(離散)の現実は、私たちに(写真の)表面だけでなく、さらなる深部をも見せつける」


「キューバのこの50年を理解するキーワード。それはintensityとagony。Intensityとは、実らなかったけれど忘れ難い恋のようなもの。一方agony とは、ギリシャ語で苦闘を意味する。プラヤ・ヒロン侵攻事件からソビエト帝国の崩壊に到るまで、革命は常に脅威にさらされていた」


ところで、このエッセイを読んでいて、やや唐突な感を抱きながらも興味を引かれたのが、「音」→「音楽」への言及。
「写真展は、見せることが出来たものと同じくらい、見せ損ねたものを示す。反乱軍は制服を着用し、武器を携帯している。そこに我々の音楽がもつ幸福感は全くない」
「革命が熱を帯びていた当初、キューバ人はルンバやコンガを踊りながらデモ行進した。しかし結局、指導層に阻まれた。首脳部は、アフリカ的よりもスペイン的だったのだ。音楽という我々のアイデンティティに背を向け、踊りで喜びを表しながら革命を祝うことは、不謹慎で品が無いと見なされた。音楽は実存的自己表現だったのに、政府は満足感を先送りし、社会主義を建設した」
「写真展に登場する唯一の音楽は、禁断のロックを演奏する若者たちの写真だ。ザ・ビートルズのイメージは、帝国主義的デカダンスの例。(心理学者の友人がロンドンでの会議から帰国する際、娘たちの土産にビートルズの鬘を持ち帰ったら、空港で尋問され、鬘を取り上げられたうえ解放された)」


さらに写真展の感想として、デスノエスがもう一つ強調したかったこと。それは―
「写真展でもう一つ特徴的なのが、ゲリラ闘争と世界的な反帝国主義の強調だ。比較的豊かな島を発展させる代わりに、司令官たちは世界に武力を広げることに信をおいた。わずか2~3年でキューバは自国をワールドパワーと見なし、社会正義のモデルを広げる代わりに、世界のゲリラ戦を支援するため何十億も費やすことを選択した。キューバに社会主義を建設する代わりに、世界的な夢に投資し、キューバの幸福を犠牲にした。2万人以上のキューバ人がアンゴラで命を落とした。我々の島は、国際的連帯の名の下に軽んじられたのだ」


それでも彼はこう続けます。
「私は体制が変わることが良いとは思わない。むしろ、さらなる混乱、より深刻な社会的分裂を招くだろう。そして男も女も他者を顧みなくなるだろう」
「現政権は、市場経済の欲求の開放と調整をし、キューバ人に表現と旅行の自由を与えるべきだ。私は継続、歴史的経験に基づく建設を信じている」


そして次のような言葉で締めくくられています。
「薔薇は、見るだけなら色の幻覚だが、手で掴めば残酷な棘だ。」


Marysolからも最後に一言
デスノエスの主張は異論・反論を呼ぶでしょうが、最後の薔薇の喩えは、私が「キューバ映画修行」を通じて得た真実。


参考記事:

http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10004221643.html
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10223520527.html
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10443952379.html
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10277159728.html
他、多数(ブログ記事一覧「メモリアス」に収録)