Memorias del Desarrollo レビュー | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

年の初めを『Memorias del desarrollo』 のサンダンス映画祭ニューフロンティア部門正式出品で飾った、ミゲル・コユーラ監督。
今頃はロサンジェルス(で開催される映画祭?)に着いた頃でしょうか?
そのあと、コロンビアにも招待されているそうです。
そうそう、ロンドンのラテンアメリカ映画祭でも上映されるとか。
さて、きょうはカナダのモントリオールで開催された「ヌーヴォーシネマ・フェスティバル」の際のレビューを紹介します。(訳は大意です。)


「Memorias del Desarrollo(仮題:高度資本主義社会の手記)」レビュー

原文:http://www.artsandopinion.com/2010_v9_n5/2010festivalnouveaucinema-ratings.htm

MARYSOL のキューバ映画修行-コラージュ
主人公のセルヒオはN.Y.在住のキューバ人。ミゲル・コユーラ監督は、写真、雑誌、デジタル画像、アーカイブ資料を駆使して、セルヒオに驚くべきコラージュを作らせ、観客に革命の決定的瞬間を垣間見せる。こうして、セルヒオの記憶のなかの不快な事件を効果的に示し、指導部の上っ面なレトリックやそれに付随する革命の暴力を明示する。拷問、荒廃、無駄にされた命(人生)が眼前をよぎる。セルヒオはじっとしたまま、避難場所のアメリカで自由を訴える機会を探り、行く先々でキューバ革命について講演をする。
だが、やがてアメリカにも幻滅したセルヒオは、孤独な隠者へと転落していく。

時おり女性の介入はあるが。
彼にとって大事なことは、intensity(激しさ)だ。not actions(行動はしない)。だが皮肉なことに、彼が最後に感じるのは空しさなのだ。彼に寄り添うのは、憂鬱と寂寥。そして、溢れる記憶が、幻想と共に(逆説的だが)知的明敏性をもたらす。
人間存在の不協和音の中にしか自分の居場所がないことを彼は理解している。「人類に対して私が成し得る最善のことは、できるだけ遠ざかること」。

最後に彼がネバダのBadlandsで独居することに何の不思議があろうか?
この作品は、様々な面で観客の度肝を抜く。資本主義の嘘っぱちとキューバ革命があの島に創り出した時間の歪み-まるでセルヒオのように世界から切り離されている-その両方を生々しく伝え、集約しているからだ。
孤独なアンチヒーローが老いを迎え、ふさぎこむにつれ、我々も存在の悲劇性と関わらざるを得ない。そこでの幸福な瞬間とは、大量消費主義に裏打ちされた感覚的な幻想でしかない。喜び(joy)は、愚者に似合いで、映画が暗示するように、我々も同類だ。主役のセルヒオを演じたRon Blairの演技は素晴らしく、真実味がある。
この映画は、まるでパワーのあるドキュメンタリーのようだ。だが、あまりにもパワフル過ぎて、観客の世界はひっくり返ってしまうかもしれない。あるいは、見方によっては、自分の世界認識は正しかったと確認できるかもしれない。