エドムンド・デスノエス、78歳の誕生日 | MARYSOL のキューバ映画修行

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きょう10月2日は小説『低開発の記憶』の原作者であり、シナリオも書いたエドムンド・デスノエスの78回目の誕生日おめでとうございます!
そのデスノエス氏、78回目の誕生日はベルリンで迎えています。というのも、『低開発の記憶』がドイツ語に翻訳されて出版されたのでプロモーションに行っているのです。
2ヶ月前には、ポルトガル語での出版と映画上映のために、サンパウロを訪れていたし、昨年の秋は、続編『Memorias del Desarrollo』がスペインで出版されてセビーリャに行ってたし、老いてますますご活躍の様子。メデタイことです。
このまま100歳まで頭脳明晰、KY(空気など読まない)主義を全うし、日本にもプロモーション(何の?)に来て欲しいものです。


さて、きょうはデスノエス氏の誕生日を記念して、(8月19日付)ICAIC DIGITALに掲載された『低開発の記憶』40周年記念のアンケートに対する彼の返事を紹介します。


質問:「公開40周年を迎え、貴方にとって個人的、キャリア的に見て、『低開発の記憶』に関わる主要人物であることは、どのような意味をもっていますか?」


デスノエス エドムンド・デスノエス
「私の小説がなければ、ティトン(アレア監督)は自身の傑作を作ることはできなかったし、私の小説もいつのまにか干からびて、皺だらけになり、消滅していただろう。正直言って、ひとつの映画作品が、これほどまでに原作の小説を生き永らえさせるとは思わなかった。
ティトンは私の小説に、映像と言葉と見解(ideas)と状況をまとわせた。

我々は皆エゴイストだから、ティトンとコリエリ(主人公セルヒオを演じた俳優)が亡くなっても、自分がまだ生き長らえていることを私は嬉しく思っている。だが同時に孤独を感じる。

もしハバナで共に40周年を祝うことができたなら、そして、ティトンやコリエリと抱擁を交わすことができたなら、どんなに良かったことだろう。もっともコリエリは、革命に積極的に参加しなかったブルジョアを無理して演じたと表明していたが。そのセルヒオという人物は、最近40年間のキューバ文学のなかで、今、誰よりも精彩を放っている。棺おけに片足を突っ込んだ状態とはいえ、私もまだ生きている。そして私の出席なしに、キューバで私の作品が祝われることを思うと、胸が痛む。私は招かれなかった(注:デスノエス氏は1979年に亡命しNY在住)。ICAIC DIGITALだけが、少なくとも私に(上記の)質問を寄越してくれた」。


デスノエス氏、ハバナで開催された記念イベントに招待されなかったことがとても寂しかったようです。でも出席した人の話によると、すごくこじんまりとしたイベントだったらしく、その意味では、2004年のハバナ映画祭開催中に行われた『低開発の記憶』改訂版の出版イベント(デスノエスが主賓)のほうが華やかだったみたい。(関連記事:http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10004294843.html
というわけで、そのことは報告したんですけどね。


そうそう、話は跳びますが、ブラジルではデスノエス氏のインタビューを中心にした“素晴らしい”ドキュメンタリーが出来たそうです。私にもプロデューサーにメールして見せてもらえ、って言うんだけど、そんな簡単に事が運ぶとは思えません…
ハバナ映画祭でも上映をかけあってる人たちがいるとか。果たして実現するでしょうか?
フィルム上映に伴って、またキューバに招待されたらいいのに。


発言からも分かるように、いつも挑発的でそのために誤解や敵を招きやすいデスノエスですが、本当はすごくデリケートで真っ直ぐ(スギル?)人だと思います。