デスノエスをめぐる人間関係 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

キューバ映画の名作『低開発の記憶』の原作は同名の小説で、
原題はメモリアス・デル・スブデサロジョ」(1965年発表)。
あれから40年以上を経たきょう(11月2日)
続編「メモリアス・デル・デサロジョ」の出版発表が
スペイン・セビーリャで現地時間の夜8時から行われます。
http://www.nodo50.org/lafuga/MEMORIAS%20DEL%20DESARROLLO.pdf
続編の主人公はニューヨークに住む、老いたキューバ人。
中心的テーマは「亡命生活」「喪失」「老い」
前作同様、デスノエスの実人生が反映されているようです。


というわけで、著者のエドムンド・デスノエスは今セビーリャにいます。
ミゲル・コユーラが製作中の映画のほうの続編(一部)を携えて・・・
早く両方とも見たい!
デスノエス 私にとって映画『低開発の記憶』は

今も尽きせぬ魅力と謎を秘めた作品。
だから、その映画のシナリオを書き、撮影にも積極的に関与したデスノエス氏が元気でいてくれるのは本当に嬉しいこと。
まだまだ訊きたいことがたくさんあるからです。
先月もメールで質問をしたところ、

期待した以上の返事をくれました。
で、その内容がまさにこれから探っていきたい事と大いに関わっていたので、今回はご本人の承諾を得て、その一部を紹介します。


Marysolへ
ティトン(アレア監督の愛称)とネストール(アルメンドロス)は、共和政時代と革命後数ヶ月間は友人関係にあった。

私たちは皆、友達どうしだったのだ。
だが映画『PM』や同性愛者迫害をきっかけに対立が生じ、決裂してしまった。
ネストールは私の新しい小説に、話し手の実の弟として登場する。
マリア・ロサ(註:ネストール・アルメンドロスの実の 姉で、デスノエスの最初の妻)は、生粋のスペイン人気質をもった女性だから、情熱的で
政治的態度もはっきりしている。
彼らの関係には「カラマーゾフの兄弟」的なところがあった。
キューバを出てフランスで成功したネストールは、マリア・ロサとの諍いに勝つこと、革命は地獄であると示すこと、家族をキューバから出国させることに固執して生きた。
彼らの父親は市民戦争でスペインからキューバに亡命後、教育省の副大臣を務め、キューバで亡くなった。
義母と義弟たち(ネストールともう一人)はキューバを去り、バルセロナに移住した。

私は今もマリア・ロサと深い友情を結んでいる。だから、ハバナに行けば必ず彼女に会う。

義父のエルミニオ・アルメンドロスは、公明正大で知性豊かな人だった。

彼のおかげで、私は人間的に成長したし、政治意識も育まれた。
ネストールは財産の一部をマリア・ロサに残したが、キューバを出ることが条件だった。


Marysolより皆様へ
ティトンことアレア監督、あるいはデスノエスの人間関係を追うだけで、キューバ史の貴重な一面が捉えられると思います。
アレア監督の作品を読み解くうえでも、これからしばらく上述のいくつかのテーマについて書いていく予定です。


ネストール・アルメンドロス(Wikipediaより)
幼少時代に、フランシス・フランコ政権のファシズムを恐れた両親と共にキューバに移住する。

教育映画の製作に携わった際に映画撮影に関心を持ち、スペインの国立映画学校に留学するも、充分な教育を得られなかったことに業を煮やし、ニューヨークやパリを転々としながら、独学で映画撮影を学ぶ。

1960年、キューバでカフカの短篇を原作にした短篇映画をはじめ、4本の短篇やドキュメンタリーを演出する。

 

やがて、訪れたパリで、エリック・ロメールの元でカメラマンを務めたことがきっかけとなり、フランソワ・トリュフォーや、ジャン・ユスターシュといったヌーヴェルヴァーグ派の映画作家と親交を深め、その作品を数多く担当した。自然光をたくみに使い、映画、絵画、写真などの博識な芸術知識を活かした斬新で芸術的な映像美は注目を集め、特にフランソワ・トリュフォーとのコンビネーションは、フランス国内のみならず、海外でも評判を集めた。

 

また、1970年代からはアメリカ映画にも進出、撮影を担当した1978年のテレンス・マリック『天国の日々』でのリアリスティックで芸術的な映像美によりアカデミー撮影賞を受賞した。その後も、ロバート・ベントン、マイク・ニコルズ、マーティン・スコセッシなどとコンビを組み、特に、ロバート・ベントンとは、社会現象ともなった1979年の『クレイマー・クレイマー』や1984年に二度目のアカデミー撮影賞を受賞した『プレイス・イン・ザ・ハート』を初め、5本の作品を担当している。

 

穏やかな人柄とともに複数の言語を流暢に操る豊かな教養の持ち主であり、自伝『キャメラを持った男』を執筆した際には、自身の撮影技法を初心者にもわかりやすく解説し、各国の翻訳に大しては監修、校正なども行った。

1992年3月4日、ニューヨークで急死。
キャメラを持った男、武田潔訳 筑摩書房(1990年6月、絶版)ISBN 4480871640