サラ・ゴメスと『ある方法で』
マリオ・ピエドラ(ハバナ大学教授)
キューバ映画史において初の黒人女性監督として知られるサラ・ゴメスは、
優れたドキュメンタリー作品を残したが、初の長編フィクション『ある方法で
(原題:De cierta manera)』 の完成を見ることなく、喘息の発作で世を去った。
映画を完成させたのはトマス・グティエレス・アレアとリゴベルト・ロペス。
二人は彼女の友人だった。
映画を完成させるのは大変だった。サラが通常プロの監督が使用する35ミリフィルムではなく、16ミリで撮影することに固執していた為、それを35ミリに“拡大”するのに作業的にも資金的にも大きな負担がかかったからだ。
多くの批評家や研究家は、本作が《1959年以降、初めて女性によって撮られた長編映画》である点にこだわるが、私は16ミリというドキュメンタリー仕様で撮られたことが重要だと思う。というのも、サラが“マージナルな(疎外された)”世界をそれまでと違う方法、すなわち“内側から”撮りたかった証(あかし)に違いないからだ。
映画を知らない方のために言うと、35ミリ仕様というのは、照明や高度の技術や多くの機材を必要とする。一方16ミリだと、使用するカメラも小さいし、照明もあまり要らず、“構えないで”対象に迫ることができる。
おかげで本作には高い証言的価値が備わった。
私たちが目にするのは、本物の母親― ネオリアリズム風に、彼女は息子との間に抱えている問題をカメラに語っている。
そしてアフロキューバンの儀式― この儀式は一般には撮影できない類のものだ。
こうして私たちは、即興で撮られた生活を目撃する。キューバ社会の広範囲に実在する暮らしをありのままに。
私の考えでは、『ある方法で』の特長は、女性が撮ったことにあるのではない。
それよりも、監督が映画に登場する人たちに対し多大な敬意を抱いていること、フォークロア風や民族誌学的なアプローチではなく、“内側から”迫り得たことにある。
この“デリカシー”、相手に対する尊敬の念こそ女性的な特質だと思う。
だからこそ、『ある方法で』にはジェンダーの視点が明確にあると言えるのだ。扱っている諸問題に敏感な女性だから撮り得たということだ。
サラは、それまでキューバ映画にほとんど登場しなかった、それらの層を撮ることに多大な関心を寄せていた。それらの疎外された地域、革命のプロセスに同化しきっていない規範が支配する地域は、通常(キューバ)映画のなかでは、“フォークロア的”だったり、“よそ事”ないし“異質”なものに描かれてきた。
出自は違っても、サラはそのような世界に通じていた。
しかも、その世界を理解したいという強い願望を抱いていた。
黒人やムラートが大部分を占め、低収入者が住み、独自の道徳倫理観が根を張る世界は、革命の関心事と無縁な存在になりかねない世界だった。
サラ・ゴメスの最大の長所、それは革命後の初の女性映画監督という事実にではなく、キューバ社会に広く存在する、ある層に対し敬意と理解に満ちたアプローチを達成したことにあるのだ。