「地下室の手記」と『低開発の記憶―メモリアス―』 | MARYSOL のキューバ映画修行

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【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

ドストエフスキーが静かなブームらしい…
ならば今回はブームに便乗して、映画『低開発の記憶―メモリアス―』を

キューバ版『地下室の手記(=メモリアス)』と銘打ってアピールしてみます!
地下室の手記
まず前回の記事で紹介したように、デスノエスの小説の原題『低開発の記憶』=スペイン語でメモリアス・デル・スブデサロジョは、ドストエフスキーの小説「地下室の手記」=スペイン語で“Memorias del subsuelo(メモリアス・デル・スブスエロ)”に由来しています。
両作品の主人公は、住まいこそ違うものの(“地下室”の主人公はペテルブルグ市のはずれの「ぼろくそのひどい部屋」に住み、『メモリアス』の主人公(セルヒオ)はハバナ市の高級住宅地ベダードにある、豪華な高層マンションに住む)、どちらも無為で“ひきこもり”(もしくは現実から逃避)状態。
年齢も近いし(40才38才)、共に無職。
性格は双方とも自意識過剰なナルシストで、プライドが高いくせに自虐的。そして傲慢(精神的暴君)。ところが実態は、妄想の世界で空回りしている―


さて、そんな似たもの同士が主人公の二作品を通して感じたことは「人間とは矛盾に満ちた存在であること」「内に底知れぬ闇を抱えていること」「二人ともプライドが高く傲慢なくせに、実は滑稽なほど生真面目で、痛々しいほど小心なこと」「人間の卑小さと寄る辺なさ」でした。


さらにネットでも『地下室の手記』について意見や解釈を拾っていたら、この作品が「ユートピア、もしくは空想的社会主義者への反論である」という指摘が目に留まりました。ふ~ん、「地下室の手記」には、そんな歴史的・社会的背景があったのかぁ…知らなかった。


で、ふと思い出したのが、デスノエスの“あるコメント”。
以下は、今年の3月初め、映画『メモリアス』とチェの“新しい人間”の関連について尋ねた私のメールに対する、デスノエスからの返信の一部です。
Edmundo Desnoes 革命の初期、文学と映画には二つの機能があった。ひとつは新しい価値観をつくること:映画『ルシア』のように。もうひとつは、それらの価値に疑問を呈すること:映画『メモリアス』のように。

ティトン(アレア監督)も私(デスノエス)も、チェの提唱する「新しい人間」を信じていなかった。だから映画の始めのほうで、セルヒオはチェが国連でした演説を引用する:「“もうたくさんだ”。そう言ってこの偉大な人類は歩き出した」そしてチェの不可能な楽観主義に代わって、セルヒオはこう皮肉る:「マイアミに着くまで歩みを止めないだろう」と。“新しい人間”のことを考えたことは一度もなかった。私たちが信じたのは、男も女もより人間的に生きられる社会状況を作る可能性だった。ささやかな改良―今もその信念に変わりはない。


―とデスノエスは言うのですが、果たしてアレア監督も同意見だったのかどうか?私は依然として疑問に思っています。だって、アレア監督は「映画は小説を批判している箇所もある」と語っているから(この件の続きは、またいつか)。


というわけで、ロシアの「メモリアス(手記)」キューバの『メモリアス』。
両者の関係性はいかに?


最後に朗報ですビックリマーク
渋谷ユーロスペースで大ヒット(願望込みで)上映中のキューバ・ラテンアメリカ映画の傑作『低開発の記憶―メモリアス―』。
追加上映(モーニング)と延長上映が決定しました!
6/30(土)ー7/14(金)限定モーニングショー 10:15 - 12:05
21:10からのレイトショーは、引き続き7/20(金)まで延長!!


レイトショーに行かれない方、朝の回へぜひ!

そして感想を聞かせてください。