草壁久四郎氏の思い出 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

草壁久四郎氏の思い出  ハバナ大学教授 マリオ・ピエドラ


どこの国にも“名前”が必要だ。ある国についてどれだけ知識があろうと、見聞を備えていようと、そこに個人の名前を欠いていてはさして意味がない。
逆に誰かの名前を伴っていると、人はその国に思いを馳せるとき、その人のことを考え、そして初めてその国を実感できる。
「“酒は人を酔わせる”ことは誰でも知っている。しかし、飲んでみなければ、そのことを実感できない」と禅の公案にもある通りだ。
私にとって日本の“名前”は草壁久四郎さんだった。


1985年頃のことだった。ICAIC国際部からの依頼で、私はある日本の評論家のアテンドをすることになった。彼の名前はキュウシロウ・クサカベ。日本の有名な映画評論家という以外は何も知らなかった。
仕事上の付き合いでは、接待する相手に対して何の親近感も感じないことがある。そういう場合は、淡々と職務を全うするまでのことだ。
ところがクサカベとは出会った瞬間から、見ず知らずの彼と私の間に親愛の情が通った。
彼は小柄で、日本語なまりの英語を話し、いつも微笑んでいた。
その微笑みは、時として日本人が見せる社交上のものではなく、心からの満足を映していた。


彼はあまり英語が上手ではなく、それは私も同じだった。けれども私たちは互いによく分かり合っていたので、通訳を使わなかった(通訳が日本語もスペイン語もあまりうまくなさそうだったせいもある)。
日本人は、本当に親しい相手以外には、自分の家族や経歴についてあまり話したがらないことを私は了解している。だが、クサカベが私に自分の家族や娘さんのことを話してくれるのに時間はかからなかった。そのうえ彼は、自身が長崎の原爆の生存者であることも話してくれた。「私たちは友だちなのだ」私は、そう理解した。


その後まもなく私たちはチェコスロバキアで再会し、彼のおかげで私は初めて日本酒の味を知った。
そのとき彼は日本の代表団を率いていたのだが、私たちは一緒に日本映画を何本か鑑賞した。そのなかには彼の友人、黒澤明監督の『乱』もあった。
けれども私にとって忘れがたいのは“El lancero(直訳すると『槍騎兵』/ひょっとして『槍の権三』のこと?)”を鑑賞したときのことだ。映画のなかで、茶会がほぼ完全な形で披露されるシーンがあったのだが、はたして私がそのシーンを理解できたかどうか、クサカベはとても知りたがった。「一番気に入ったところは、茶碗のなかで葉を動かす慣習でした」と私が答えると、彼はとても満足した様子で、嬉しそうにこう言った「君はよく分かっているね」と。


翌年、キュウシロウはキューバに帰って来た。今度は日本の財団の“大使”としてだ。
私より偉い官僚達がこぞって彼のアテンドをしようと馳せつけたが、クサカベは大そう丁重に‘自分は友人のマリオにアテンドしてもらいたいのだ’ということを彼らに示した。

当時もその後も、彼はキューバに来る度に、私に小さなプレゼントを持ってきてくれたが、いずれも日本の素晴らしい技術の結晶というべき品だった。しかし私にはプレゼントもさることながら、それをくれる時に見せる彼の興奮ぶりこそ嬉しかった。


滞在中のある日、彼は私に奇妙なことを依頼してきた。キューバ音楽で踊れるようダンスを習いたいというのだ。もう年配の粋に達した男がそう言うのを聞いて、私はいささか腑に落ちなかったが、それでも素晴らしい踊り手である女友達に頼んで、クサカベの願いを叶えた。

こうしてほぼ毎晩11時過ぎになると、キュウシロウは新ラテンアメリカ国際映画祭が開催されているホテルのパーティーに現れて、私たちキューバ人グループに合流した。私たちは皆、彼のことが大好きだったし、何より彼を我々の一員だと感じていた。
キューバ人とお酒の関係は特別で、飲みっぷりで人柄がわかると考えられている。当時、我々キューバ人たちは、ホテルの高額な酒類を避けて、内緒でパーティーにボトルの持込をしていた。それを知ったクサカベは、同じ事をするようになった。実際、彼にはそんなことをする必要はなかったのだから、私たちは彼がキューバ人の一員として振る舞いたいが為にそうしているのだと理解した。

そんな彼を私たちは心から歓迎した。年長者でありながらダンスを習ってキューバ人のように踊り、私たちと心を通わせようとしたキュウシロウ。

そして、私たちと同じようにお酒が好きだったキュウシロウを。


やがてクサカベは12月のハバナで開催される映画祭の常連となった。
ある時私は、彼から「どこか良いレストランを教えてほしい」と頼まれた。なんでも、とても大事な人物を夕食に招くから、というのが理由だった。

そこで私は、当時の最高のレストランとして“フロリディータ”の名を挙げた。「本当にそこは最高なのか?」彼が何度も念を押すので、私は「間違いない。ただしかなり高くつくよ」と答えた。すると「よし。では君も招待するよ」と言うではないか。私は「ただ話をするのにそんな高い場所へ行く必要はない」と言ったのだが、彼は譲らなかった。そして私に大事な仕事を補佐するよう頼んだ。

それは、ガブリエル・ガルシア・マルケスを日本に招待し、アキラ・クロサワとの会談を実現させることだった。


告白すると、私の生涯で最も誇らしい出来事のひとつが、私の友人、キュウシロウ・クサカベのささやかな補佐役として、日本とラテンアメリカの両巨匠の出会いを実現させたことだ。もちろんその功績はキュウシロウのものであり、彼のみに帰することは承知しているが。


さてその後、彼はまたキューバに戻ってきた。到着するなり、私たちはホテルで再会した。部屋についていくと、スーツケースはまだ開けてもいない状態だった。彼は荷をほどくと、中から非常に美しいプレゼントを取り出して私にくれた。私はそれを生涯大切にすることだろう。
今回のプレゼントは、伝統的な日本の品だった。私はその贈り物を見て、喜びと同時に悲しみを覚えた。なぜなら、これが彼の最後のキューバへの旅になることが分かったからだ。そして、実際その通りになってしまった。


それから大分経って、私はキュウシロウがすでに亡くなっていることを知った。
彼は、映画の友であり、キューバの友であり、とりわけ私にとって迷うことなく“友だち”と呼べる人だったから、その死はたまらなく残念だった。
私は常々、人類の歴史上、最大の犯罪はヒロシマとナガサキに落とされた原子爆弾だと思ってきたが、その生存者たるキュウシロウと知り合ったとき、初めてそのことを実感した。
また、私は若い頃から日本と日本の文化に愛着を感じていたが、その日本に友人、しかも本当の友人を持ったとき、私は初めて日本を実感することが出来た。


私にとっての日本は、キュウシロウ・クサカベ。私の初めての日本の友の名前。


      Profesor Mario