黒澤監督とマルケスの対面 | MARYSOL のキューバ映画修行

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後編:文豪マルケスと黒澤監督の対面


草壁久四郎氏が仲介して、黒澤監督とガルシア・マルケスは接点を持ちます。
1986年12月、草壁氏はハバナ映画祭に出席するにあたり、黒澤氏からFNCL(ラテンアメリカ映画財団)が新設する映画テレビ学校開校式のためのお祝いメッセージを預かります。

 *前回の記事に引用したマルケス(理事長)と草壁氏の写真は、黒澤監督のメッセージを受け取って満面の笑みを浮かべている文豪の図です。
黒澤監督のメッセージが開校式で読み上げられたときの「激しい拍手と感動の波を私は忘れることができない」と草壁氏は記していますが、草壁氏自身もキューバ(とラテンアメリカ)の人々が喜ぶ姿を目の当たりにして、さぞかし苦労が報われたことでしょう。
なんだか想像するだけで、こちらまで胸が熱くなってきます。
また、黒澤氏のメッセージは今も財団の本部に飾られているそうなので、もしかすると来月キューバに行ったら、マリオ先生の案内で見られるかもしれません。もし実現したら、写真に撮ってブログに載せますので楽しみにしていてください。


さて1988年、黒澤明監督を名誉委員長(草壁久四郎氏は実行委員)としたラテンアメリカ映画祭は予定通り開催されましたが、ラテンアメリカ代表団の長として来日するはずのマルケスは交通事故で重症を負ったため来日が叶いませんでした。
*下は映画祭プログラムの掲載された(対面するはずだった)二大巨匠の写真

         M&K

けれども2年後の1990年10月“夢の対面”が成りました。
また、マルケス氏の来日を記念して開催されたのが

『新ラテンアメリカ映画祭’90』
Aプログラム《ガルシア=マルケス映画特集》 (銀座テアトル西友にて)、
Bプログラム《新ラテンアメリカ映画の回顧》 (キネカ錦糸町にて)という企画でした。


Aプログラム《ガルシア=マルケス映画特集》の内容は、1986年に発足した新ラテンアメリカ映画財団(FNCL)の最初の大規模国際プロジェクトで、スペイン・テレビ局(ETV)と共同製作した『愛の不条理シリーズ』(1988)+『モンティエルの未亡人』。
『モンティエル未亡人』は、マルケスがチリのミベル・リティン監督のために自作の短編を基にシナリオを書いた作品で、メキシコ・ベネズエラ・キューバ合作/1979年。
『愛の不条理シリーズ』は、スペイン、ブラジル、メキシコ、コロンビア、ベネズエラ、キューバの計6カ国が、それぞれマルケス自身の原案・脚本で映画を製作し、シリーズとしてまとめたもの。ちなみにキューバ編はT.G.アレア監督の『公園からの手紙』です。


Bプログラム《新ラテンアメリカ映画の回顧》で上映された作品は
『コインを』(フェルナンド・ビリ監督、1959年、アルゼンチン)
『洪水地帯の人々』(フェルナンド・ビリ監督、1961年、アルゼンチン)
『リオ40度』(ネルソン・P・ドス・サントス監督、1955年、ブラジル)
『煉瓦労働者』(M・ロドリゲス&J・シルバ監督、1966-68年、コロンビア)
『人民の勇気』(ホルヘ・サンヒネス監督、1971年、ボリビア)
『リード:反乱するメキシコ』(ポール・レデュク監督、1971年、メキシコ)
『エル・メガノ』(J.G.エスピノサ& T.G.アレア監督、1955年、キューバ)
『エレンディラ』(ルイ・ゲーラ監督、1983年、フランス・メキシコ・西ドイツ合作)


この映画祭に寄せたマルケスの言葉を一部紹介しましょう(プログラムより抜粋)。
日本の人々は、ラテンアメリカの人間のことをどう思っているのでしょうか。
(中略)もはや何もかもが説明されて理解されたという真っ赤な嘘にはうんざりしきったこの時代にあって、先ほどの問いに答えてくれるのは、映画の素晴らしい嘘だけです。なぜなら、その類まれな力によって、それぞれの人間の心の中で常に私たちを待ち受けている、恐ろしくも魅惑的な宇宙を探索することができるからです。したがって、映画祭というものはすべて、めくるめく冒険を意味します。


さて映画祭の開催に先立って来日したマルケスが、成田空港で発した第一声は「いつクロサワに会えるか」だったそうです。(本当に会いたくて堪らなかったんですね)
そして到着から3日後、遂に“世紀の対面が実現”します。
場所はホテル・ニューオータニ。
通訳と草壁氏以外立ち入り禁止で、お二人は3~4時間に渡り歓談したとのこと。
草壁氏の著書『世界の映画祭をゆく』(毎日新聞社)よると、対談の中身はテープに録音されたそうですが、芸術論・原爆の問題・マルケスが切望していた自作『族長の秋』の黒澤監督による映画化など密度の濃いものだったとか。
残念ながら“合作プラン”については、結論はペンディングになり、その後黒澤監督の死により消滅。マルケス氏としては、さぞかし無念だったことでしょう。(日本のラテンファンにとっても残念!)
また、私がマリオ先生を経由して聞いた(マルケスに同行した財団事務局長の)アルキミア・ペーニャ女史の話によると、ちょうどそのとき黒澤監督は接近中の台風を撮影しようと待機していたところで、マルケスに一緒に台風が来るのを待とうと誘ったそうです(草壁氏の本にも、『八月のラプソディ』の撮影に入っていた、とあります)。


“合作映画”は実現しませんでしたが、念願の監督との対面・対談を果たせて、マルケス氏は大満足だったようです。その様子を草壁氏「子供のようなはしゃぎようだった」と記しているし、キューバのアルキミア・ペーニャ女史「マルケスはクロサワに会うことを切望すると同時にすごく緊張していた。そして長時間の対話のあとは感激しきっていた」とマリオ先生に話してくれたそうです。


今となっては、草壁氏、黒澤監督、マルケスの3人のうち存命なのはマルケス氏だけ。
亡くなったお二人のためにもマルケス氏には長生きしてほしいものです。


注:文中の年号は1988年開催の「ラテンアメリカ映画祭」と「新ラテンアメリカ映画祭'90」プログラムを参考にしました。

草壁氏の著書『世界の映画祭をゆく』(毎日新聞社)の年号とは食い違いがあることをお断りしておきます。