映画『いやし難い記憶』 | MARYSOL のキューバ映画修行

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【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
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映画の視点で語る『いやし難い記憶』



前回は原作の小説を紹介したので、今回は映画の視点から『いやし難い記憶』を紹介することにします。というのも、トマス・グティエレス・アレア監督(『苺とチョコレート』で有名)の“最高傑作”とも評されるこの映画は、単なる小説の映画化ではなく、もっと積極的な意味をもつ作品、小説と対峙し、小説を凌ぐ作品と受容されているからです。


ところで、私が『いやし難い記憶』という映画の存在を知ったのは、偶然出会った本のおかげでした。その本とは米国、ニュージャージー州にある(らしい)Rutgers Universityが出版した「Memories of Underdevelpment/Tomas Gutierrez Alea, director and Inconsolable Memories;Edmundo Desnoes, author with an introduction by Michal Chanan」です。


この本によると(映画と小説の関係について)アレア監督自身が「小説はあくまでも素材であって、場合によっては裏切られたり、否定されたりしている」と言っているのです。


前回の記事で紹介したように、小説は日記のような形式で、革命後キューバに自らの意思で残った主人公の揺れ動く思いを綴っています。
それが映画になると、原作と同じでありながら、より俯瞰的(客観的)に主人公を捉えているため、自分の殻に閉じこもったまま、現実と関わらない主人公(名前はセルヒオ)の態度を批判しているような(監督の?)視線が感じられます。


そのことを象徴しているのが、セルヒオの住むマンションのベランダにある望遠鏡。彼が望遠鏡を通してハバナの街を観察するシーンは、彼と現実との“隔たり”を暗示しているのです。

(ちなみにこの「望遠鏡で見る図」は、若い監督たちの作品に引用されたり、パロディ化されて使われたりしています)

        映画:『いやし難い記憶』

また、キューバ危機のさなか、死の恐怖に眠れぬ夜を過ごすセルヒオの姿と、対比的に映し出される街で防衛体制につく民兵たちの姿。
一人で“引きこもる”セルヒオの姿と、外で団結して戦いに備える人々の姿を対比することで、映画は観客に問いかけているようです。どちらの態度を選ぶのか、と。


他にも映画的話法を駆使して、主人公のみならず、あらゆる人たちの言動の矛盾、欺瞞が暴きだされます。そして、セルヒオが発する舌鋒鋭いコメントは、ときに傲慢とも思えますが、ピカソだろうが、ヘミングウェイだろうが容赦しないので、観る者を動揺させるでしょう。


こうして映画を観るうちに湧きあがってくる疑問、動揺、迷い。
これこそ監督が意図するところです。一人一人が自分の人生や現実とどう向き合うか、自発的に考えるよう仕向けているのです。(その罠に見事にハマッた私は、まさに“模範的観客”ですが、実際この映画については、何度も劇場に足を運ぶ人が目立ったそうです)


映画の表現はあくまでも暗示的・シンボリックですから、その曖昧さゆえに様々な解釈が可能です。私の場合を言えば、観る度に“変わる”・・・というか、新しい解釈に気づかされています。


一見メランコリーでアンニュイな雰囲気を漂わせる映画『いやし難い記憶』。でも実は、切れ味鋭いナイフを隠し持つ“手ごわい”映画です。
そして人生と同じく、たくさんの罠がしかけられています・・・どうぞ(チャンスがあれば)くれぐれも注意してご覧下さい。