原作「いやし難い記憶」 | MARYSOL のキューバ映画修行

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【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
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小説(原作)「いやし難い記憶」について (1)


映画『Memorias del Subdesarrollo』(邦題『いやし難い記憶』)には、ベースとなった小説があります。現在、映画の方は観たくても日本ではその手立てがありませんが、原作の小説なら読めます。
というのも、1972年に筑摩書房から『いやし難い記憶』というタイトルで翻訳出版されているからです。(ただしすでに絶版のようですが、図書館で探せばあるのでは?私は、初め図書館で借りて、後に古書ネットで購入しました)
ちなみに訳者は小田実氏です。(著者はエドムンド・デスノエス)

             いやし難い記憶2
今回は小説『いやしがたい記憶』について紹介します。
まず特徴は「日記形式」で書かれていること。だから読んでいるうちに、いつのまにか主人公(名前はない)の主観にのせられて、同化しやすいかも・・・
でも興味深いのは、その自己を客観的・批判的に見ている“もう一人の自分”の視点が入っていること。つまり“自分を突き放して見ている”ところです。
ですから、決して感傷的になったりはしません。むしろ冷徹で、(前回紹介した「概要」の台詞からも覗えるように)シニカルな眼差しで自分と自分の周囲(革命後まもない1961~62年のキューバ社会)を描写しています。


主人公は元プチ・ブルで、自意識過剰で、女好きで、理屈っぽい“嫌味なインテリ”です。でも彼の辛らつな言葉は一理あるし、内省的なので、反発を覚えながらも、つい納得・・・というか、考え込まされてしまうのです。

また、徹底的に自己と対峙し、ジレンマに葛藤する“切実さ”には、我が事のように引き込まれてしまいます。

もうひとつ、この小説の魅力は、1962年の歴史的事件「キューバ危機」とは、一人のキューバ人にとってどんな出来事だったのか、その時どんな気持ちを味わったのかを窺えることです。
「キューバ危機(十月危機)については、様々なメディアで論じられ、報道されてきましたが、“キューバの人々”に言及していたり、キューバの視点から描かれたものに触れたことは一度もなく、いつも不思議に思っていたからです。

「キューバ危機」と言いながら、誰もキューバに目を向けていないことに。


以上のような私の印象を、訳者の小田実氏が書かれた「解説」の言葉を(適宜)引用して締めくくると・・・


“革命の中でどう生きればよいのか、彼(主人公の“遅れた”しょうのないインテリ)にも判っていなければ、革命にも判っていない”ことが、小説の主題ではないか。

主人公の革命に対する姿勢には、あきらかにためらいがある。

だが、そのためらいに重要な意味あいがあり、そのためらいこそ、個人にとっても革命にとっても重要なのではないか。


革命と個人のかかわりあいという根本的に重要な問題のほかに、たとえば、「後進国」の問題、「後進国」の知識人の問題もあって、それは、正直に言って、読んでいて身につまされる。あるいは、革命後の人びと、ふつうの人びとのくらしはどうなっているのか、そして「十月危機」というものがどれほどの衝撃を人びとにあたえたか(そこから、私は「小国」の視点でものを見るという重要性をあらためて学んだ)、その他さまざまなことがらについて私たちはこの小説から読みとることができる。