私は大学でスペイン語を専攻して以来、スペイン語圏の映画を欠かさず見るようにしているのですが、特にラテンアメリカ映画の紹介の仕方などに「!?」と思うことが時々あります。
数年前にも一度、ありました。
そのときは、映画の本題と宣伝文句があまりにも“違っている”と思ったので、「こんなふうに紹介されたら、ただでさえ日本人になじみの薄いラテンアメリカの事情がますます解りにくくなる!」と本気で怒り、以来ずっとその腹立たしさを引きずっていました。
ある時、近所で山田洋次監督のお話を聞ける、こじんまりとした会があったとき、監督に質問できる時間があったので、思い切ってこの“わだかまり”をぶつけてみました。
私の質問
「ラテンアメリカの映画をよく見るのですが、映画の内容と宣伝文句が、たまに大きく違うことがあるように思います。監督という立場から“宣伝”を見た場合、できるだけ多くの人に観てもらうことと、映画のメッセージがきちんと届くことと、どちらが大事なのでしょうか」
山田監督
「映画の宣伝で“中身”と“包装紙”が違うことは、ありがちなことです。僕個人としては、包み紙を見れば中身がわかる方が好ましいと思っています。
こんなことがありました。『幸せの黄色いハンカチ』という映画のポスターを決めるときの話です。
いくつかの案のなかで、ハンカチが空にはためいている図が問題になりました。その図は“映画の結末”を教えてしまっているからです。
でも僕は言いました。【幸せの黄色いハンカチっていう映画があるんだってね。それは、刑務所から出てきた男が、妻がもし自分を待っていてくれたら、そのしるしに黄色いハンカチを家の前に出しておくことになっていて、長い刑期を終えた男が、怖れと期待に胸をドキドキさせながら家の前を通ると、家の前には黄色いハンカチがたくさんはためいていた、っていう話なんだって】【ふ~ん、そんな映画があるのか。観てみたいねぇ】 そんなふうに言ってもらいたい。結末はわかってしまっても、そのうえで【そんな映画を観たいな~】と思ってもらえれば、僕としては一番うれしい。で、結局そのポスターは採用されたんです。
(http://www8.plala.or.jp/CTRNhp/hankachi.html )
ひとつ、こういうことは言えますね。どんな宣伝でも、担当する人たちが本当にその映画に対して“愛情”をもっていると、なぜか“成功”する、なぜか“伝わる”んですね。作品に対する愛情。要はそれだと思います」
この山田監督の言葉は、なぜか私の心にストンと気持ちよく落ちました。まさに「腑に落ちた」という感じ。
そして今まで“ただムカっ腹をたてていた自分”が、すっと消え去りました。
「そうか。愛のもてる仕事をすればいいんだ」と気が付いて。
こう書いてしまうと、なにも目新しいことはないでしょうが、そこはやはり、誠意と魂のこもった監督の肉声のなせる技。シンプルなのに、忘れがたい転機となる言葉でした。
さて先日、あのロンドンのテロのあと、知り合いのスペイン人と話していた時のこと。「テロを起こす側にも理由がある」という彼に、私は「“怒り”から発する行為は何も良い結果をもたらさない」と応酬し、この“取って置きのエピソード”を話したのですが・・・「アメリカ人と日本人の頭のなかはバラ色だね」と一蹴されてしまいました。ガ~ン!でも、彼らのピカロ(辛らつ)な物言いにはもう慣れっこ。
ちょっとタイミングをはずしてしまったけど、今ならこう言い返したい。「ええ、おかげ様でここは日本ですから」
そう、こんなふうに言えるうちが花、幸せなんですね。
世界は棘だらけだから・・・
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ところで、きょう池袋の文芸座に「成瀬巳喜男特集」を観にいったのですが、入ってすぐに目を惹かれたポスター。なんと成瀬作品『おかあさん』(1952)のポーランド版ポスターでした。エドアルド・ムニョス・バッシの記事を書いていて「ポーランドのポスターってどんなの?」と思っていたので、心が躍りました。
ムニョス・バッシとは違う雰囲気だけれど、今見ても新鮮な魅力を放っています。