今回はリクエスト企画ですニコニコ

長崎屋火災 

1990年(平成2年)

毎日新聞(1990年3月19日)

 

1990(平成2)年3月18日の午後0時35分ごろ、兵庫県尼崎市のスーパー「長崎屋尼崎店(Bigg-Off尼崎店、鉄筋5階建、地下1階)の4階インテリア売り場付近から火が出ました。

 

 

4階(出火階)平面図

*閉まらなかった防火扉については

北側と南側と異なる情報がありますが

ここでは南側としています(後述)

 

当時店内には、買い物客約130人と従業員58人がいました。

 

出火後まもなく非常ベルが鳴り、館内放送があったため、4階以下にいた人たちはすぐに店外に避難して無事でしたが、4階からの有毒ガスを含む猛煙が出火からほんの数分で5階へと噴き上がりました。

 

全焼した4階の売り場

 

後でも触れますが、炎や煙を防ぐべき階段の防火扉が、踊り場に置かれていた商品の段ボール箱に邪魔されてうまく閉まらなかったことが被害をここまで大きくしたのです。

 

5階平面図

 

そのため、5階にいた休憩中の従業員や出入り業者、またゲームコーナーにいた子ども客ら22人が逃げ場を失いました。

 

毎日新聞(1990年3月19日)

 

5階にいた22人のうち、1人はなんとか自力で階段から下りて避難し、2人(小学生と成人男性)が食堂の窓から飛び降り、重傷は負いましたが命は助かりました。

また、事務室にいた3人と食堂の1人が駆けつけた救助隊員によって窓から救出されています。

 

その時の様子を、当時の救助隊長は次のように語っています(神戸新聞NEXT、2022年7月15日)。

 

「初動がもう少し早ければ、あそこまで被害が広がらずに済んだかもしれない」

 当時、尼崎市中消防署に勤務していた男性隊員(55)はそう振り返る。男性は救助隊長として隊員らとともに現場に最も早く到着。通報から4分後だったが、既に5階窓から黒煙が上がり、中から手を振って助けを求める人影が見えた。

 消防車のはしごが届かず、隣のビルの非常階段を駆け上がり窓から長崎屋尼崎店5階の窓にはしごを渡した。

 4人を次々と救助し、5人目の若い女性を救い出そうと男性隊員が手を伸ばした瞬間、女性の体は煙の中に崩れ落ちた。

 

朝日新聞(1990年3月19日)

 

救助隊長が「初動がもう少し早ければ」と悔やんだように、事務室の3人が助けられたあと、食堂の窓にはしごを移してさらに1人を救助し、5人目の女性を助けようとしたところ、彼女は「煙の中に崩れ落ち」、結局15人が従業員食堂(1人は厨房)で亡くなりました(下図)。

 

神戸新聞NEXT(2020年7月15日)

 

康兄弟と冨樫君の3人はゲームセンターの客

この他に出入り業者の男性2人が死亡

朝日新聞(1990年3月19日)

 

亡くなった15人のうち焼死した人は1人もおらず、全員が4階のカーテンや寝具などの化学繊維が燃えた煙に含まれる一酸化炭素を吸い込んで亡くなっています。

これは、以前にこのブログで取り上げた大阪・千日デパート(1972)や熊本・大洋デパート(1973)の火災での犠牲者の多くと共通するものです。

 

 

千日デパート火災

 

 

大洋デパート火災

 

 

火事の原因については確定していませんが、火の気のない4階インテリア売り場のカーテンが最初に燃え上がったことから、放火の疑いが非常に強いと見られています。

 

警察は、従業員らの目撃証言にもとづいて、疑わしい6人の似顔絵を作成して捜査を進めましたが、物証などが何も残っていない状態で容疑者を突きとめるには至らず、2005(平成17)年についに公訴時効を迎えてしまいました。

 

長崎屋尼崎店では、当時は設置義務の対象外でスプリンクラーはありませんでしたが、法令で求められている火災報知器や防火扉、避難通路などは適正に設置されていました。

また、前年には防火訓練を2度おこなっており、多数の人が利用するホテルやデパートなどで一定の防火基準に適合する施設に消防局が交付する「適マーク*」も受けていました。

 

*1980(昭和55)年の栃木県川治プリンスホテル火災をきっかけに、翌年度から宿泊施設を対象に始められた制度で、1983(昭和58)年度からは対象が劇場やデパートなどにも広げられました。2001(平成13)年に起きた新宿区歌舞伎町の雑居ビル火災の教訓から、新たな表示制度が消防法に規定されたことに伴い、それまでの「(旧)適マーク」は廃止され、現在の「(新)適マーク」は、申請のあった宿泊施設を対象に審査し、合格した施設に交付されています。

 

  

「適マーク」(左が旧、右が新)

 

このように、設備面では防火基準をクリアしていた長崎屋尼崎店でしたが、致命的な問題のあったことがこの火災によって明らかになりました。

 

当日の状況をあらためて時系列で確認しておきましょう(参照:神戸新聞NEXT)

 

    

 

12時25分 買い物客が4階寝具売り場でを目撃。店内に火災報知機のベルが鳴り響く

 

12時30分 5階事務室の火災報知機が鳴り、4階南側に火災表示

 

12時31分 従業員が商品のカーテンからが上がるのを発見

 

12時34分 4階のレジで最後のレシートが打たれる

 

12時35分 4階から客15-20人が非常階段で避難開始

 

12時37分 119番通報と同時に店内放送。逃げ場を失った従業員ら21人が5階に避難

 

12時40分 火が燃え広がり黒煙噴出。5階窓から逃げ遅れた従業員らが救助を求める

 

12時41分 消防隊の第一陣が現場到着。隣接ビルからはしごを渡して救助開始。直後に2人が5階食堂の窓から飛び降り重傷

 

12時46分 5階休憩室南側の事務室の窓から3人、食堂の窓から1人がそれぞれ救出される

 

14時03分 5階食堂付近で15人の遺体が確認される

 

15時52分 火がほぼおさまる

 

16時00分 尼崎中央署に捜査本部を設置

 

17時06分 鎮火

 

致命的な問題の一つは、初動の遅れです。

 

4階の煙を感知して火災報知器が作動し、それに続いて5階事務室の火災報知器も鳴りましたが、それまでに誤作動が何度も起きていたことから、事務職員はまた誤作動かと思ってすぐには対応しませんでした。

 

そのために、一分一秒が成否を分ける初期消火のタイミングが失われ、4階で従業員が消火ホースを引き出した時にはもう火は手に負えないまでに燃え広がり、逃げるだけで精一杯だったのです。

119番への通報も、事務室の職員が火災報知器の鳴動を知ってから7分も後でした。

 

火災報知器の誤作動には、①エアコンなどの使用による急激な温度上昇、②雨漏りや結露、③経年劣化が3大原因としてあげられています(参照「消防テック」)。

長崎屋の場合どれが原因かは分かりませんが、いずれにしても誤作動が頻発していたのですから、専門業者による点検と修理・調整を依頼していたなら防げた可能性が高いでしょう。

それを放置していたとすれば、店長や防火管理責任者に重大な過失・職務怠慢があったと言わざるをえません。

 

致命的な問題のもう一つは、階段の踊り場に置かれた商品の段ボール箱やゴミ袋が邪魔して防火扉が閉まらず、階段が「煙道」となってしまったことです。

 

毎日新聞(1990年3月20日夕刊)

 

*毎日新聞のこの記事では、南側の防火扉が閉まり北側が半開き状態とありますが、朝日新聞の記事では「ゲームコーナーのすぐわきの[南側の]階段から猛煙が噴き上げてきた」と内容が具体的なこと、また北側階段はトイレに近く階段を利用する客もいると思われるので、その踊り場に店が荷物やゴミ袋を置くとは考えにくいため、このブログでは南側の防火扉が閉まらなかったとしています

 

朝日新聞(1990年3月19日)

 

当時はまだバブル景気が続いており、できるだけ多くの商品在庫を確保しておこうという店側の利益優先の結果だったようですが、同じように防火扉が閉まらない問題が先述した17年前の大洋デパート火災ですでに起きており、さらに長崎屋には尼崎消防署の立ち入り検査でそれまで5度にも渡って改善指導がなされていたのに、それを無視し放置していたわけです。

 

朝日新聞(1990年3月19日)

 

2つの問題のうち、防火扉が閉まるよう物を片付けるという簡単なことだけでもできていれば煙の回りが妨げられ、15人は死なずに消防隊員に助け出された可能性が高いわけですから、ご遺族は悔やんでも悔やみきれない思いでしょう。

 

このように、長崎屋尼崎店は定められた消防設備を備えていながら、それらが正しく作動・機能するために必要な措置が目先の利益を優先するためになされておらず、結果としてまたしても多くの尊い人命を奪う結果になってしまいました。

 

このことからも、防災の要は管理責任を担っている人間にあり、それなしにいくら制度や設備を改善しても惨事は繰り返されてしまうことがあらためて明らかになったのです。

 

たとえば、スプリンクラーを設置している施設においても、誤作動による水の被害を避けるため、水道管の元栓を閉めているところさえあるそうです。

 

毎日新聞(1990年3月19日)

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

朝日新聞(1990年3月19日)

 

日曜日のお昼過ぎに大型スーパーで起きた放火と見られる出火が、ゲームコーナーに遊びに来ていた小中学生3人を含む15人が亡くなる大惨事となった火災事故です。

 

しかし見てきたように、防ぎ得た人災という面からすれば、これは「事故」というよりも「事件」というべきかもしれません。

 

当然ながらこの火災では、店長と防火管理者である総務マネージャーの2人が業務上過失致死傷罪で書類送検され、起訴されました。

 

ただここでも、長崎屋本社の経営陣については、「各店舗の管理は店長にすべて任されている」ということで何の刑事責任も問われないという、相変わらずの「トカゲのしっぽ切り」で済まされています。

 

現場に管理責任をすべて任せていると言いながらもは、売り上げについて本社が各店舗に強い圧力をかけていたでしょうから、上に目が向く店長としては、利益優先に傾くのは避けられなかったでしょう。

 

先に取り上げた「つま恋」や「天六」のガス爆発事故でもそうでしたが、何か起きても「現場」の管理者に泣いてもらって経営トップは安泰という安全管理上の企業の無責任を、いつまで放置しておくのでしょうか。

 

毎日新聞(1991年5月29日夕刊)

 

1993(平成5)年9月13日、神戸地裁尼崎支部の佐々木条吉裁判長は、起訴された2人の過失責任を認め、それぞれ禁錮2年6月、執行猶予3年の有罪判決を言い渡しました。

 

また下の記事によると裁判長は、「火災原因は放火とされるが、大惨事を引き起こしたのは人災である点を明確に認定したうえで、ずさんな店舗管理をした長崎屋の経営体質について「防災面よりも収益を大事とする基本姿勢に問題があった」と厳しく指弾した」そうです。

 

それにもかかわらず、現行法では本社経営陣の罪がまったく問えなかったのであれば、問えるような法改正が必要なのではないでしょうか。

 

毎日新聞(1993年9月13日夕刊)

 

この判決については、長崎屋本社の菅野道雄専務が記者会見で「受諾できる内容ではないか」と控訴しない方針を示し、一審で確定しました。

 

しかし、火災直後に岩田文明社長と狐墳(こづか)英毅常務が「防火設備面での落ち度がない」ことを強調する「おわび」記者会見を開いたそうですが(朝日新聞)、「防災面よりも収益を大事とする」長崎屋の経営体質への裁判長の「指弾」を、菅野専務ら経営陣がどう受けとめたのかは不明です。

 

なお、火災後に無期限休業となっていた長崎屋尼崎店はそのまま再開されることなく1990年11月に閉店、地裁判決のあった1993(平成5)年には建物も解体されました。

現場は更地となっていましたが、2004(平成16)年に店舗付マンションが建設されたとのことです。

 

長崎屋尼崎店の事故/事件を受けて、スプリンクラー設備の設置対象が拡大されるなど、防災・防火体制の強化を義務づける法制度的な措置が取られました。

 

その後も、新宿歌舞伎町の雑居ビル火災(2001、死者44人)や、近くは京都アニメーション放火殺人事件(2019、死者36人)、大阪北新地ビル放火殺人事件(2021、犯人を含む死者27人)が起きていますが、不特定多数の客が利用するデパートやホテルなど大規模施設での火災は起きていません。

 

けれども、長崎屋尼崎店でも指摘された安全より利益を優先する企業の経営体質は、バブルが崩壊した後の長引いた不況やグローバルな経済競争の激化による経営環境の悪化によって、1990年当時よりも強まっているのではないかという懸念を小川は抱いています。

 

小川の勤める職場施設でも、法で定められた防災設備などハード面は整えられていますが、人件費節約のための職員の非正規化や低賃金による労働の質の低下、慢性的な人手不足など、「防災の要」であるはずの「人間」の条件はむしろ悪化している状態が続いています。

 

そうした中で、また人災として大きな惨事が繰り返されることのないよう、願うばかりです。

 

最後に一つ、お見せしておきたい記事があります。

 

毎日新聞(1990年3月27日)

 

長崎屋尼崎店の火災があった3月18日から8日後の26日、事故で亡くなった浜畑フサエさん(63歳)の夫・富雄さん(68歳)が、自宅の仏壇近くのかもいで首をつってなくなっているのを、近くに住む長男と妹が見つけたそうです。

 

遺書はありませんでしたが、妻のフサエさんを亡くしてから富雄さんはふさぎ込み、「早くフサエのところに行きたい」ともらしていたことから、後追い自殺ではないかと見られています。

 

 

浜畑フサエさんは火災が起きた日、5階にあったゲームセンターの管理人として働いており、階段から上がってくる煙に、ゲームで遊んでいた子どもたちを助けようと手を握って廊下を走っているのが目撃された最後の姿となりました。

 

おそらくフサエさんは、逃げ込んだ食堂で有毒な煙に巻かれ、子どもたちをかばいながら力尽きて亡くなったのではないかと思われます。

 

フサエさんの場合は夫の死によって明るみに出ましたが、亡くなられた15人お一人おひとりにおいてその死は、家族や友人など周りの人たちに癒すことのできない悲しい波紋を広げたに違いないと、思わずにおれない小川です。

 

参照資料

・各新聞の関連記事

・ウィキペディア「長崎屋火災」

・消防防災博物館「特異火災事例・(株)長崎屋尼崎店」「昭和60年代の消防」

 

 

 

 
読んでくださり、ありがとうございます🥰💕