仏教はなぜ執着を嫌うのか。
執着は、人の願いであり、人の目標であり、人のエゴである。
人の願いであるならば、執着も悪くはなさそうである。
人の目標となれば、執着も前向きであるような感じもする。
しかし人のエゴとなれば、執着は悪者扱いされそうである。
願いと目標とエゴの差は何か。
願いは、想うことや期待することであって、実際に行動することではなさそうである。
願いは叶う叶わないに関わらず、想うこと自体が行動である。
そうすると願いに執着するということはなさそうである。
目標は叶うことを前提とするから、願いよりも人の感情が入りやすい。
人は感情移入すると、思っていた以上に力を発揮する。
目標があるから無理に思えることもやってのけることができる。
目標をなくした者には、もはや成長はないかのようである。
ところが目標とエゴの差は分かりにくい。
自分や人から見れば目標であっても、自分や人以外のものから見ればエゴといえることは多い。
人には目標とエゴを見分けて行動する力は備わっていない。
目標を決めて行動することは、そのままエゴを実行することになる。
ところが目標とエゴとの間に大きな差が生まれることがある。
自分の利益を考えない目標はエゴではなくなる。
なぜなら自分の利益を考えない行動は、報われることを前提としない。
行動すること自体に意味がある。
しかしそのような行動はほとんどないと言っていいだろう。
だから、誰にも最後には願うことである祈りが残される。
成長を伴わない祈りに何の意味もないと思う。
その通りである。
しかし、人の最終地点は死に違いなく、祈ること自体が目標となり得る。
















