思い出は意識せずとも現れては消えていく。


思い出は経験であるとともに、経験に加えた感じ方である。


思い出から感じ取ることがその人の性質を作っている。


時間は一方的にしか流れないが、思い出は双方向に流れる。


思い出は時間と違って過ぎて行くものではない。


思い出は無意識のうちに夢などとして現れ、形を変えて繰り返し感じられる。


人の脳からしてみれば、今の時点と思い出は同じ性質のものであろうか。


人の脳にとってみれば、時間が過去から未来へと流れようが、現在から過去へと流れようがどちらでもいい。


どちらでもよくないのが感じ方にある。


感じ方こそ過去、現在、未来の全てである。


それによって全ては塗り替えられる。


オバケ天使オバケ天使オバケ天使オバケ天使オバケ天使オバケ天使流れ星

もう死んでしまいたいと思うことは誰にでもあるだろう。


人は耐え難い苦しみの状況に置かれると、少なからずこのように思うことがある。


このように思うことは至って正常であり、実は懸命に生きようとする心の表れである。


死んでしまいたいという思いは、安楽になりたいという思いから来ているからだ。


人は苦しさに耐えきれない感情のはけ口を、死という静止した状態に求める。


耐えきれなさは行動しなければならないことにあり、死という静止した状態では行動することを考えなくて済む。


人は精神を休ませる休息を求めている。


そのような休息を求めるのは、健全な状態でありたいと思うからであり、自然なことである。


苦しさの理由を考えようとするから、苦しさが不健全なものになってしまう。


苦しさに理由はない。


生きることに懸命になれば、苦しいときには、心の安楽を求めて祈ることが全てになる。


祈りの中に苦しさを吸収する力があると信じたい。


苦しさの理由を考えると余計に苦しくなる。


与えられるだけの苦しみであれば、苦しさの度合いは弱い。


祈りによって消されてしまうはずだ。


ブタ汗ほんとかなドンッ


急激に仕事量が増えて格闘中。パソコンドンッあせる


しかも、難しい案件にぶち当たっている。ドクロ


こんなときは奇跡的に早く終わらせる方法を望むものだが、そのような方法はない。


切羽詰まっても、順番に一つずつやる能力しか備わっていない。


慌てることなく順番に、要求されるところまでやるしかない。


仕事ほど単調なものはないだろう。


この単調な思考と長く向き合うことは、苦痛を伴い、人生における大きな修行の場となる。ブタ汗


弱音を吐かず、やり終えることだけを目標に、耐え続けるしかない。台風チューリップ黄


耐え続けること自体に、人生の意味はあるのかもしれない。


仕事はあくまでも他人からの要望に応えることに他ならないからだ。


ただ言えることは、自己保存が可能な限りで耐えるということだろう。


体力的にかつ精神的に健康でなければ、耐えることはできない。


そこのところを加味して、極端に走らないようにするしかない。雷ブタ汗爆弾


人は自分があると思っているが、他人や周辺のものとの相対関係をなくして自分はあり得るのだろうか。


自分だと思っていることも、周囲との関係を絶って考えてみると、自分と思うべきものは存在しない。


人や人以外のものも、周囲との相対関係にあって初めて認識されるだけであり、この相対関係をなくした絶対的な個性として、人は存在することができるのだろうか。


人が思い悩むのはいつも自分についてである。


他人を区別して見る心は、自分を意識して初めて生じる。


元々相対関係の中にしか自分が存在しないのだから、自分について悩むというのはおかしなことである。


相対関係は生きることの縁であり、縁は自分に関わりなく生じている。


縁の中でしか生きられないのが人であるから、全ては縁に身を任せても良いのだろう。


しかし人は、それでは満たされない自分をいつも思い起こそうとする。


嫌なとき、辛いときであればなおさら、自分を思い起こそうとする。


そのような自分に一体何の意味があると思うのだろうか。


嫌なときは自分が嫌なもの自体になっているのであり、辛いときは自分が辛いもの自体になっている。


そう思うと、自分という隔離された存在は感じられない。


そして、思い悩むことも消滅する。


しかし、そんな風に相対関係から自由になれないのが人であるということだろう。


雨雨雷雨雨雨かたつむりくもり雨雨天使キラキラ


仏教はなぜ執着を嫌うのか。


執着は、人の願いであり、人の目標であり、人のエゴである。


人の願いであるならば、執着も悪くはなさそうである。


人の目標となれば、執着も前向きであるような感じもする。


しかし人のエゴとなれば、執着は悪者扱いされそうである。


願いと目標とエゴの差は何か。


願いは、想うことや期待することであって、実際に行動することではなさそうである。


願いは叶う叶わないに関わらず、想うこと自体が行動である。


そうすると願いに執着するということはなさそうである。


目標は叶うことを前提とするから、願いよりも人の感情が入りやすい。


人は感情移入すると、思っていた以上に力を発揮する。


目標があるから無理に思えることもやってのけることができる。


目標をなくした者には、もはや成長はないかのようである。


ところが目標とエゴの差は分かりにくい。


自分や人から見れば目標であっても、自分や人以外のものから見ればエゴといえることは多い。


人には目標とエゴを見分けて行動する力は備わっていない。


目標を決めて行動することは、そのままエゴを実行することになる。


ところが目標とエゴとの間に大きな差が生まれることがある。


自分の利益を考えない目標はエゴではなくなる。


なぜなら自分の利益を考えない行動は、報われることを前提としない。


行動すること自体に意味がある。


しかしそのような行動はほとんどないと言っていいだろう。


だから、誰にも最後には願うことである祈りが残される。


成長を伴わない祈りに何の意味もないと思う。


その通りである。


しかし、人の最終地点は死に違いなく、祈ること自体が目標となり得る。


もみじもみじもみじもみじもみじ星空もみじもみじ星もみじもみじ霧もみじもみじお月様もみじもみじ

 今までシャツ一枚とスラックスで頑張っていたが、いよいよ今日からスーツに衣替え。


曇っていると電車の中の暑さもなく、上着がないと寒い。


ぼんやりとやって来た秋だもみじ


台風で町民運動会は流れたが、それでよかったのか悪かったのか…。


子供の鼓笛隊の演奏機会も流れてしまったドンッ


休日を待って、ただ働いて生きるだけである。


その大したことのない日々が生きるということである。


人は決められた生活の中で、何らかの生きがいを見つける。


多くは感情に届くことがなければ、感情を揺さぶることもない。


それを当たり前だと受け止められるほどには、まだまだ成長していない。


成長とは、生きることを強めることにあれば、生きることの根底にある死を感じることにもある。


生と死、動と静、現象はすべて、対になって初めて機能し続けることができる。


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仲良しガチョーンとカモーンクラッカー

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「空」


 くうと読めば仏教の用語になるが、からと読めば人間の生活を言うような感じだ。


「くう」も、「から」も同じことを言っているように見える。


しかし、「くう」は全てを認め、全てを肯定又は否定したところにあるようだが、「から」はそうではないようだ。


「から」は思考によって作り出すものであり、無いものとしてしまう心にある。


人の虚しさを思えば、からになってもおかしくない。


人は、元々、からの中で生きているのであり、から以上のものはない。


無いことを無限に捉えるのが「くう」、無いことをゼロと捉えるのが「から」。


実はゼロと無限大は近いところにある。


どちらも対象が大き過ぎて分からないが、どちらもいずれ全てのものが収束する目標地である。


人は、本当の「くう」に、あるいは本当の「から」になれないから、いつでも中途半端である。


中途半端に生きるのが人であり、生物である。


だから人の一つ一つの行動は小さなものであり、一人一人の差は小さなものである。


皆が中途半端だからである。


そのような中途半端な私たちが小さな議論を重ねようと、それはただの遊びに過ぎない。


人は、「から」にならないようにいつももがき続けるが、「から」以上のものになっていると言えるだろうか。


人は、「から」でもなく「くう」でもない自分を持つように努力する。


それが人に与えられた使命であるのだろうか。


カエルあせるカエルあせるカエルあせる波台風

放ったらかしにしていた庭木の剪定を気合いを入れてやってみた。


しかし、思わぬ子供のいたずらによって、丸形のサツキの木がハゲになってしまった。


まさかとは思ったが、甘かった((((;゚Д゚)))))))


おそらく来年にはある程度成長して元に戻るとは思うが・・・・・・。


なくしたものを思う気持ちはいつでも同じようなものかな。


気にしないように納得してしまえば忘れていられるが、気にするとどん底に落ちる感じだ。


後から取り返しがつくことは少ない。


存在するものの儚きことは動物も昆虫も木や花も同じであるだろうか。


森林セラピーという言葉が最近聞かれるようになった。


高野山に行くとパンフレットで見かけるし、同行会ではセラピストの人にも会った。


年配の人が健康のためにやるという感じが強いが、森林を歩くときに使う五感は何よりも体にいいようだ。


自然に帰る前準備としてはてなマークはてなマーク森林浴は欠かせないかな霧霧霧晴れ


近くの公園へお散歩晴れ


いつもの仲良しガチョウとカモがヒヨコヒヨコ


実は残しておいたパンを持ってエサやりに食パン


すっかり人に慣れているようだ


美味しそうにパクリッビックリマークパクリッビックリマーク


ガチョウの右の羽は野犬とケンカしてやられたそうなわんわんパンチ!ヒヨコメラメラ


なんでケンカしたのか不明はてなマーク


もしかして野犬にエサを奪われたむかっ


ガチョウとカモが住み着くこの公園はやはり素晴らしいもみじ霧


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ガチョーン!!ドンッ
カッモ~ンビックリマーク音譜爆弾



秋の風は適度な温度と湿度があって、なんとも心地よいことか。


高野山の奥の院が与えてくれたエネルギーには、芯から落ち着ける持続性がある。


人間はいずれこのような自然に還るということを再認識させてくれる。


また、個人行動に慣れてしまっている我々の業界であるが、団体行動を取ることの楽しさを味わうこともよい。


我々は個人プレーをしながらも、個人に執着せず、全体的な生命の流れの中に存在することを認識したい。


通常、人間は自分に拘って、生命の輪の中にいることを忘れてしまう。


文明は人間を高みに連れて行くとともに、人間の自性を失わせる。


広く生きるか狭く生きるかも、高く生きるか低く生きるかも、大きく生きるか小さく生きるかも、すべて自分で選択しているかのように思われる。


しかし、本当に選択すべきことはそのようなことではない。


あるいは選択すべきことはもともと存在しないかもしれない。


生きることは、生命の輪の中にいることを再認識して、僅かながらの、人間の救済をすることにある。


できることは僅かである。


あとは自分を維持して、快くいられるようにすればよい。


それが生命の輪の中にいるということだから。


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