これからの時代は嘘や偽りが隠し通せる時代ではないよ | 【意識改革❗️宇宙意識と繋がり多次元存在として生きる❗️】宇宙魂のメッセンジャーRINA

宇宙魂のメッセンジャーRINAです


カラダは、魂の神殿です🏛️

カラダが悲鳴を上げる時


それは魂の声を無視して

魂がわたしの声を聞いてよ!


と悲痛な叫びとなったとき😭


わたしたちはある程度無理をしても

動けてしまいます


疲れたなぁと思っても

アレやらなきゃいけないと思って動いていたら


疲れたなぁと思ったことも束の間忘れ

動けてしまいます。


それを日常的に繰り返していることも

多いかもしれませんね。


そして、ある時とうとう

我慢ならない痛みが襲って


カラダが病氣になってしまっていたりします。

病氣になって初めて氣づけることもあります。


今日は久しぶりに母のことを書いてみます☺️

興味のある方はお付き合いください✨😊






わたしの母は、何度も何度も繰り返し

癌になっては、癌を克服し


また癌になっては、癌を克服し

という生活を20数年、送ってきました。


最後は癌で亡くなりました。


母は生前、癌になっているときは

仏になったような氣がする。


と言ったことがありました。


不思議ですが、その時は

その意味が何となく分かった氣がしました。


仏になったときは、氣持ちが穏やかに

人に対してもおおらかになれていたのかも

しれません。


母は仕事をしながらも

いつもいつも誰かのため、猫のため

わたしたち家族のために動いていました。


わたしが小学6年生頃くらい

だったと思いますが


(この辺うろ覚えです💦)


母は全身に蕁麻疹が出るようになりました。


毎日毎日、来る日も来る日も

蕁麻疹が出て苦しそうでした。


それでも絶対に仕事を休みませんでした。


よく分からない粉を水に溶いて

飲んだりもしていました。


多分、体質改善の薬草の粉か何か

だったのかもしれません。


わたしは母の辛さや苦しさを

よく分からず、きっと優しい言葉とかを


かけてあげれたことは無かったと思います。。


わたしが中学1年の2学期

母は乳癌になりました。


『明日から入院してくる!癌だって!』


とても明るく、そうわたしに告げました。

わたしはビックリしたものの


よく分からず、でも何か大変なことが

起こっている。そう感じていたものの、


当時のわたしはわたしの時間が大切で、

母がその年のクリスマスに手術だったのですが


前日にお見舞いに行き、わたしが帰る時、

外まで出てきて、母はパジャマだったので、


カラダを丸め両手でカラダを抱えながら、

わたしを見送ってくれました。


しかし、友だちとその後も遊んでいて

家に帰っていないのをすごく心配していたと

確か、父から聞かされ、


母が寒そうに見送ってくれた姿が

脳裏に浮かび切ない氣持ちになりました。


次の日の母の手術の時間は、

中学の終了式の真っ最中。


その時も母に心配かけてしまったことの

罪悪感と母の手術がうまくいきますように

両方の思いでいました。


中学1年の3学期に入り、

わたしは仲の良かった子達から

イジメられるようになりました。


中学2年生に上がると

暴力を振られるようになりました。


公園に呼び出されたりし

殴られたり、蹴られたりして

顔に青タン作って帰っても


親に心配かけたくなくて

適当な理由を作って誤魔化していました。


しかし、学校内で

休み時間のたびにトイレに呼び出されて


トイレで殴られたり、蹴られたりして

体育の授業をサボリ教室にいると


体育の先生が教室にやってきて、

『どうしたんだ?』と聞いてきて

わたしが『何でもないです。』


と言ったら、『何でもないわけないだろ』

と言われ、そのまま校長室に連れて行かれました。


そして、母を呼び出されてしまいました。

1番心配かけたくなかったので、

すごく悲しかったのを覚えています。


先生もわたしがイジメられているのに

氣づいていて、そのことを母に伝えると


母は怒り、警察に言うと言うので

やめて!とわたしは言いましたが


先生もわたしらじゃ手に負えないので

そうしてください。


と言い、結局そのまま警察に行くことに。

事情聴取され、


学校が休みの日に、

現場検証をすることなり、

殴られたり、蹴られたりしたトイレ


つまりその現場の写真を撮るのですが、

現場を指を指して撮影するのですが、

その指差しはわたしにやらされました。


その時のわたしの顔には、

キレイに上履きの裏の模様の

アザが出来ていました。


中間テストの日が間近だったので、

そんな顔では教室では

テスト受けさせられないと言われ、


中間テストは1人、校長室で受けました。


イジメられ出してからも学校へは

なぜか行ってました。

負けたくなかったから。


家庭科の授業などは隣のクラスと合同になり

男子は技術の授業になるので


女子だけの授業のときには、

わたしをイジメていた女の子もいたので、

上履きが飛んできたりしました。


わたしの前の子に当たりそうになり

前の子に申し訳なかったです。


イジメをしている子を怖がっている子たちも

多かったので、


表立ってわたしに近づいてくる子は

いませんでしたが、


こっそり話してくれる子たちはいて

それが救いでした。


警察沙汰になってからは、

イジメらしいイジメはなくなりました。


それでも残りの中学生活は

普通にしていたけれど、

心から楽しいと思えたことはありませんでした。


けれど、不思議なことに

イジメられて、その子たちと

離れられたことは


本当に良かったことだと

中学生ながらに感じていて、


自分を信じる氣持ちや

必ず分かってもらえる時がくる❗️

と強く信じていました。


なんでその時にそう思えたのか、

本当に不思議です。


これは、最近になって父に

聞いた話しなのですが、


この当時、母はわたしが

中学校に行ってるとき


ずっと中学校の近くで

見張っていたそうです。


全く知らなかったので本当に驚きました。


夜仕事をして、わたしが学校に行ってるときに

学校の近くを見回っていたそうです。


まだ病み上がりのカラダで

そんなことまでしてくれていて


どれほど、わたしは母に心配を

かけさせてしまったのだろう。

という思いと、


わたしの知らない間に

そんなことしてくれていた母に

感謝しかありません。


きっとすごく疲れていたのに

カラダだってしんどかったはずなのに

すごく大変だったと思います。



あんたは大丈夫‼️と

わたしに言い続けてくれた母。


わたしは大丈夫‼️と

無条件に信じられるように

なったのは母のおかげかもしれません。


母は、最初の乳癌のときから、

スキルス性の癌だったので


胸だけでなく、

腕の方のリンパの方も切除していました。


そしてやはりすぐに再発していました。

今度は西洋医学ではなく


いわゆる民間療法で癌を治していました。

近所のお医者さんで、

癌を確認し、証拠を取り、


そして、温熱療法で癌が消えたら

また近所のお医者さんへ行き

癌が消えた証拠を取って


それを何度となく繰り返していました。


わたしが19歳くらいのとき、

いつもは消えていた癌が

今回はなかなか消えなくて、


『余命半年くらいだって』と

伝えてきたことがありました。


わたしは何と言っていいのか分からず、

『そうなんだ。』


と言い外に出て、その当時の彼が

一緒にいたのですがそこで大泣きをし、


なぜかわたしは、せめてあと15年は

生きて欲しいと願ったのです。


それからしばらくして、

またよく分からないものを母が見つけ、


核酸とかいう液体と温熱療法を

合わせて行い、なんと癌が消えました。


その後、そのまま温熱療法と核酸は

続けていました。


わたしが20代のころは、

あんまり覚えていないのですが


母の癌の話しはあまり聞いて

いなかったと思います。


母は自分に癌がある時だったのかは

よく覚えていませんが、


都内の病院で

当時28歳のCAをしている女性と母は、

出会いました。


その方は節子さんと言って、

末期の癌だったそうですが、


母は毎日のように、温熱療法の道具を

持って電車に乗り、


その方のところへ行き

治療をしていたようです。


結局その方は亡くなってしまいましたが、

節子さんは母にとても感謝していたようで、


節子さんが亡くなったあと、

節子さんの遺影を送ってくださり、

それは今でも実家に飾られています。

(確か…)


母はとにかく人のために動く人で

自分だって癌だったり


疲れているのに

家族や他の人や猫のために尽くしていました。


と言ってもすごくぶっ飛んだ母でしたが。


頭が金髪だったのは、

温熱治療で毛が焦げてしまうから、


それが目立たないように

金髪にしていたそうです。


ヤクザとも戦ったり、

そしてそのヤクザの親分?に

花束もらったり、


若い頃は芸能界にいたり、


なんだかよく分からない

破天荒な母親だったのですが、


本当に本当に、

母は常に自分のことより、

人のため

猫のために飛び回っていました。



そんな母ですが、わたしが34歳の頃に

再び癌になりました。


レントゲンを見ると大きな癌があり、

それが猫の顔に見えると言って

はしゃいでいた母。


『いいか見てろよ!

絶対に無くしてみせるから!』


的なことを言っていました。



しかし、その数ヶ月後、


その癌は母のお腹を

突き上げてきました。


その頃には、痛さで氣絶したり、

それはそれはもう大変でした。


母は実家ではなく、

自分のお店で寝泊まりしていたので


わたしや父は毎日お店に行き、

看病していました。


それでもお店を開けていました。

日に日に、痛みは増し

とうとう限界に達し、病院へ


すると、癌で膨らんだお腹に

ボールペンをブスッと刺したような

穴が開き、膿が出てきました。


母は自分でベッドの上に座り、

お腹を押し膿を自分で出していました。


『よし!やったぞ!』

と言いながら。。。


看護師さんに止められていたけど、


母は、『いいから!』と言って、

看護師さんの言うことを聞きません。


そして入院することになりました。


毎日膿を出していると、

腸壁に穴が空いたらしく、


その穴から排泄物が

出てくるようになりました。


わたしはソレに氣づいていましたが、

すぐには母に言えませんでした。


しばらくして、

母も自分で氣づいていましたが。


わたしは病院へ行き、

毎日ソレを拭いては捨て、

吹いては捨てを繰り返していました。


その間、お医者さんからは

覚悟をしていてくださいと、

念を押されていました。


同意書も書かされました。


しかし、なぜか母が亡くなるとは

思えませんでした。というか信じたくなかった。


後から聞いたのですが、

父は今回はダメだと感じていたそうです。


2ヶ月くらい入院し、

その後はわたしの家で自宅介護になりました。


痛みと体力の無さと疲れやすさとでか、

イライラしやすくなっているようで、

文句も多かったですが


亡くなるまでの間、ずっと一緒に過ごせました。

母はいつも忙しかったので


こんなに一緒に過ごすことが

出来たのは初めてでした。


亡くなる2日前くらいから、

もう意識は出たり入ったりして


意味の分からないことを言ったり、

また意識が戻ると普通に話したり


あとは、あごが痛いと仕切に言ってました。


亡くなる2週間前から食事を一切

食べなくなりましたが、

不思議と痛みもなくなっていたようでした。


1週間前から、口から血を痰を

出すようにティッシュに出していました。


そしていよいよ旅立ちの時


ベッドサイドに腰をかけていたので

『トイレ?』


と聞き、母を持ち上げようとすると、


『力抜くね』


と言いました。

それが最期の言葉でした。


わたしは母を抱き抱え、トイレに連れて行くと

母はトイレのドアノブを掴み


すごい力で握っているのか

カタカタカタカタといってます。


わたしはえっ?と思い母の顔を見ると、

目が開ききっていて

上を向いて何も言いません。


そして、カクっと力が抜けました。

あっ、抜けちゃった

と感じましたが、


わたしはまだ信じたくなくて

おばさん!おばさん!

と大きな声で呼びかけていました。


そばに長男がいたので、

バケツを持ってくるように言い、


母のあごの下に固定し、母の顔を下に向けると

大量の血が出てきました。


なぜ、何か出てくると思ったのか

分からないのですが、


その時はそう思ったのです。



そして、母を廊下に横たえ、父に連絡しました。


母の最期はわたしの腕の中で旅立ちました。


『力抜くね』と最期に言った母。


これまで、頑張って頑張って

戦い続けた人生だった母。


やっと、力を抜いたのだと思いました。



その時、わたしは35歳。

わたしが願った15年は生きて欲しい。


母は、わたしが願った15年という時間を

生きてくれました。


その間に2人の孫が生まれて、

母はわたしが夜仕事でいなかったので


毎日、寝かしつけてから

自分の仕事に行ってました。


子どもたちもだいぶ大きくなり、

わたしも夜の仕事を辞めて


家にいることが多くなった頃でした。



母はわたしたちのために

生きてくれたのではないかと

思ってしまうのです。


わたしの車のナンバーは49

母の命日は4月9日です。


わたしが常々母に感じていたことは、

なんでいつもそんなに戦ってるんだろう?

もっと自分のこと大事にしてほしい。と。


わたしは母に甘えてたので

言えた義理ではないのですが。。。


母の行動力の凄さ、発想力、

根性、奉仕の精神。


たくさんたくさん尊敬しています。


けれど、わたしは自分を犠牲にしてまでも

自分の心の声を無視してまでも

そこまでしたいとはやっぱり思えなくて。


それは母を見ているから。

あんなにたくさん癌になりながら

戦っている母を見てきたから。。。


今ではわたしに反面教師として

見せてくれていたんじゃないかと

思っていたりもします。


これはわたしの受け取り方ですが。


母の人生を通して

教えられたような氣がしています。


自分を大事にしないと病氣になっちゃうよ。


自分を大切に

自分を愛して

自分を信じて

あなたなら大丈夫


って。


母の肉体はいつも悲鳴をあげていました。

母の心はいつも泣いているように見えました。


それは、わたしがこの世界に

入ってから痛いほど氣づきました。


だから、どうにか母を楽にしてあげられないか?


母に対していつもそう思っていました。


けれど、母はそれでも母の人生を

駆け抜けたように思います。


それは、カッコいいとも思います。




けれど、やっぱりみんなに伝えたいのは、


自分を大事にしてほしい


自分に嘘つかないで


自分を愛してほしい


ということなんです。



これからの時代は、

自分と一致して生きていかないと

カラダにも影響が出てきてしまいます。


それも、これまでよりも早く出てきます。


これまでの時代は、

嘘や偽りがスタンダードだった時代です。


これからの時代はそうではありません。

嘘や偽りを隠せる時代ではないのです。


人を騙したり、自分に嘘をつけばつくほどに

反転の力が働き、苦しくなっていきます。


母が生きた時代とは違います。


これまでだったら

自分を騙して、誤魔化して


何とかやってこれていたことが

通用しなくなってくるので


これからは、自分の心に正直にありのままに

表現していくことが大事になってきます。


自分を大切に愛し、扱ってあげることが

本当に本当に大事で大切なことです。


わたしたちは、これからも生きていきます。

愛の世界を💓



1日1日を丁寧に、

自分に感謝し

日々に感謝し

全ての恵みに感謝し

愛にフォーカスして生きていきましょう❤️



最後までお読みいただき

ありがとうございます☺️🙏✨





母が亡くなった後に書いた記事


閲覧注意 興味がある人だけ見てね 母の闘病



【お知らせ】
✨受付中✨

7月1日(土) 11時〜17時
セルフヒーリング講習会


7月2日(日)・3日(月) 11時〜17時
守護チャネラー養成講座

を開催します☺️


受講ご希望の方がいましたら、
ご連絡ください☺️