この数年、いろいろなセミナーを受けてきた。

宗教系、身体技法系、自己啓発系、セラピー系、コミュニケーション系、占いまで、一見するとバラエティに富んでいるが、一応横串で貫くテーマがある。
それは潜在意識や無意識に関することである。
こんなにも様々なアプローチがあるのかと感心する。
(フロイト先生やユング先生もビックリだろう。。)
これは自分自身についての探求である。
極めて個人的な作業でありながら、自分一人では探り得ない。
畢竟セミナーなどに参加することで知ることが多くなる。
 
セミナーの受講料は決して安くないと思われる。
1日(6時間程度)にして、1〜5万円位だろう。
高いと見るか安いと見るかは人それぞれだが、私個人がこれまで受講してきたものについては、価格相応のことが多かった。
ひょっとするとセミナーの趣旨とはズレていることもあるかも知れないが、私自身の目的は達成できた。
 
一方で、フォトリーディングのセミナーで会った方に、
「これまでいろんなセミナーを受けてきたけど、役に立たないものばかりだったので、今回のセミナーで終わりにしようと思います。」
とおっしゃる方がいた。
そもそも、その方がフォトリーディングのセミナーを受講したのも、本を読んで一言一句頭の中に記憶して、周りの人に本の内容を事細かに正確に話して、あっと言わせたい、というのが目的だったそうだ。
セミナー講師は、それを聞いて、
「それ、聞かされる方は迷惑ですよね。」
とおっしゃった。
私もそう思った。
 
セミナーの最中も、
非常に読書家の講師が、いろいろな本の話をしてくださったが、その全てにその方は、「その本なら、私、もう読みました。」とおっしゃる。
 
その方は大変向上心が高く、読書家で、勉強家なんだろう、と思ったが、しかし…。
人のことなので、よく分からないが、幸せそうに見えないな、この人。
そういう印象を受けた。
 
その方の問題はその方の問題なので、私には全く関係ないが、自分がセミナーを受講するにあたり、「なんのために受講するのか。なんかスゴイスキルを身に付けて、他者に自慢するためなのか。」ということは点検してみた。
 
私の周りの人たちは、潜在意識や無意識に全く興味のない人たちなので、私がそんなセミナーを受けまくっていると知ったら変人扱いされるだけである。
だから、周りの人たちには、何も言わない。
 
大変幸いなことに私の受講動機は、自分の中だけで完結しているようだ。
誰にも迷惑かけないだろう。
裏返すと、私以外の誰の役にも立たないだろう。
 
それで良いのだ。

 

少し前になるが、奈良を訪ねた。

中宮寺の御本尊、菩薩半跏像にお会いするため。

法隆寺南大門をくぐり、西院伽藍の前を右へ曲がり、まっすぐ東の方へ歩いていく。

6月に入ったばかり、少し湿り気をおびた風が吹く。

土産物店の風鈴の音。

夢殿のある東院伽藍の奥に中宮寺の入り口がある。

 

尼寺のせいか、空気がとてもやさしい感じがする。

池の真ん中に佇む御本堂もとても瀟洒だ。

 

橋を渡り御本堂に入ると、その奥に如意輪観世音菩薩様が優美な微笑みを浮かべてお迎えくださる。

 

じっと御前に坐してお顔を仰ぐと不思議な感覚に襲われる。

静かな音のない時間。

(実際には案内のテープが流れているのだが、すでに私の世界は違うところに。)

 

そこに宇宙があった。

永遠の時が一瞬の微笑みに凝縮してひとしずくとなり、私の上にこつんと落ちる。

思わず、はっとする。

静かでやさしい魂に触れたその一瞬、

言葉のない世界で何を思う?

 

外に出ると、梅雨の前のクリーム色の太陽がしっとりと照らす。

頬を撫でる風が香る。

風鈴の音。

夏はこれから・・・。

 

 

5月も終わったところで、我が家の5月のカレンダーをご紹介。

座禅を組んで修行する暇があるなら、肥やしを汲んで農作業に精を出せ、ということらしい。

座禅を組んで修行している自分は、肥やしを汲んでいる農民より立派で尊いことをしてるんだ!

というのは、如何なものか、勘違いもほどほどにしろ、ということだろうと思う。

それには全く異論がない。

 

そこを踏まえて、敢えて言わしてもらいたい。

座禅(に限らず、大事な道を極めること)を使命として生まれてきた、としか思えない人は存在する、と私は感じている。

(座禅のような)全く生産性のないことに命をかけるために生まれてきた人がいるようなのだ。

 

人は皆それぞれ何かしらの使命を持って生まれて来ているのだと思う。

座禅が使命の人が農作業が使命の人より立派で偉いわけではない。

 

使命感を持って生きている人は皆美しい。

 

他の人より偉くなったかどうかより、自分の使命を全うしているか、を自分自身に問いかけたい。

 

座禅を組んでもいいし、肥やしを汲んでもいいのである。