この数年、いろいろなセミナーを受けてきた。
この数年、いろいろなセミナーを受けてきた。
少し前になるが、奈良を訪ねた。
中宮寺の御本尊、菩薩半跏像にお会いするため。
法隆寺南大門をくぐり、西院伽藍の前を右へ曲がり、まっすぐ東の方へ歩いていく。
6月に入ったばかり、少し湿り気をおびた風が吹く。
土産物店の風鈴の音。
夢殿のある東院伽藍の奥に中宮寺の入り口がある。
尼寺のせいか、空気がとてもやさしい感じがする。
池の真ん中に佇む御本堂もとても瀟洒だ。
橋を渡り御本堂に入ると、その奥に如意輪観世音菩薩様が優美な微笑みを浮かべてお迎えくださる。
じっと御前に坐してお顔を仰ぐと不思議な感覚に襲われる。
静かな音のない時間。
(実際には案内のテープが流れているのだが、すでに私の世界は違うところに。)
そこに宇宙があった。
永遠の時が一瞬の微笑みに凝縮してひとしずくとなり、私の上にこつんと落ちる。
思わず、はっとする。
静かでやさしい魂に触れたその一瞬、
言葉のない世界で何を思う?
外に出ると、梅雨の前のクリーム色の太陽がしっとりと照らす。
頬を撫でる風が香る。
風鈴の音。
夏はこれから・・・。
5月も終わったところで、我が家の5月のカレンダーをご紹介。
座禅を組んで修行する暇があるなら、肥やしを汲んで農作業に精を出せ、ということらしい。
座禅を組んで修行している自分は、肥やしを汲んでいる農民より立派で尊いことをしてるんだ!
というのは、如何なものか、勘違いもほどほどにしろ、ということだろうと思う。
それには全く異論がない。
そこを踏まえて、敢えて言わしてもらいたい。
座禅(に限らず、大事な道を極めること)を使命として生まれてきた、としか思えない人は存在する、と私は感じている。
(座禅のような)全く生産性のないことに命をかけるために生まれてきた人がいるようなのだ。
人は皆それぞれ何かしらの使命を持って生まれて来ているのだと思う。
座禅が使命の人が農作業が使命の人より立派で偉いわけではない。
使命感を持って生きている人は皆美しい。
他の人より偉くなったかどうかより、自分の使命を全うしているか、を自分自身に問いかけたい。
座禅を組んでもいいし、肥やしを汲んでもいいのである。