昨年の10月のある土曜日。
キネシオロジーの1日体験講座に参加した。
民家を改造したようなセミナーハウスに到着すると、中年の男性が二人いた。
一人は講師の先生で、もう一人は受講生のようだった。
その受講生が私のことを目を丸くして見ている。
次の瞬間、お互いに「あー!」と叫んだ。
大学のときの同級生だった。
実に四半世紀ぶりの再会だった。
大学は工学部の機械工学科で、彼(仮にG君としよう)も、とある有名精密機械メーカーに就職したはずだ。
なんでキネシオロジーなんてセラピスト向けのセミナーに?
との問いに
「サラリーマンはとっくにやめたんだ。」
と言う。
10年ほど会社勤めをした後、専門学校でカイロプラクティックの勉強をして、今は治療院の院長をしているそうだ。
かくいう私も技術系のキャリア公務員なのだが、なぜかセラピスト向けの勉強をしている。
その日の講座の受講生はG君と私の二人だけで、二人して懐かしがりながら、左腕の押し下げをやっていたものだった。
機械工学学会とかで大学の同級生に会うのであれば、全く驚かないが、キネシオロジーの講座で会うというのは想定外もいいところである。
特に、G君は実験の班が一緒で、一緒に実験をして、一緒にレポートを書いた仲間の一人だったので、同級生の中でも親しくしていた。
まさに奇遇。
そんな、なかなかなさそうな偶然が、これまでの人生の節々に、実はあって、今の自分がある。
26年前、今勤めている役所に入ったのも、あり得ないような偶然からだった。
そんな偶然に意味あるか?
あるかも知れないし、ないかも知れない。
意味を求めてしまうのが人間の弱さなのか。
起きたことは起きたこと、それ以上でもそれ以下でもないのだが。
今回のG君との再会についても、
もしかすると、学生時代のことでまだ整理できてないことがあるのかも。
そのお知らせかも。
と考えることもできよう。
でも、私は今は意味を求めない。
G君とは、それっきりだが、縁があればまたどこかで会えるだろう。
縁がなければそれまで。
私の中では、G君はそのレベルなのだが、別のレベルの相手だと、また、違うかも知れない。
意味を求めてしまう相手もあるかも、
ではある。
真実は、往々にして、自分の表面的な望みとは別のところにある。
だからこそ、
「私の望むことより、あなたの望むことを」、
なのだ。
セレンディピティと出会うとき、これがあなたの望みですか?
と思うのである。