このところ、毎晩、弘法大師空海が夢に出てくる。

寝ても覚めても空海だ。

これはどうしたことか、と今すぐ高野山に飛んでいきたい気持ちだが、仕事が忙しく、遠出がままならない。

そういえば、近場に「大師」の名がつく立派なお寺があったではないか。

その名も「川崎大師平間寺」。

その昔、私も七五三や、大学合格祈願のお参りをした。

お陰さまで、大病もせずにそれなりの大人になったが、大人になってからは行っていない。

高野山(実は7年前に一度行った)はまたの機会にして、久しぶりに川崎大師に行ってみようと思い、昨日行ってみた。

新年ともなれば、大勢の参拝者で賑わうだろう参道も、この梅雨明け間もない初夏の中途半端な時期には、閑散として、風鈴の音だけが鳴り響く。

お寺の中はそれなりに参拝する人が行き交う。

大本堂が何やら騒がしいと思って中を覗くと、法要らしきことが繰り広げられている。

ご本尊の前に数名の僧侶が、一番偉いと思われる僧侶を囲むように坐っている。

手前には、三、四十人の信者さんたちが坐っている。

丁度、「南無大師遍照金剛」を皆さんで唱えているところだった。

入っても良さそうだったので履き物を脱いで、私も加わって唱えた。

その後、僧侶たちの読経の中、護摩焚き、太鼓や鈴の音に気分も盛り上がる。

賑やかしい、やはり真言密教だなぁ、と、なぜだかワクワクしながら、ゆらゆらと立ち昇る炎を見つめていた。

最後に、参加者がご本尊の前に案内された。

通りすがりの私だったが、せっかくの大師のお導きなので、ご本尊の前に行かせていただいた。

なんだか不思議なのだが、妙に清々しく心が充実した。

そんな初夏の1日だった。
お茶を飲む

目の前のあなたは見知らぬ人の顔
ただお茶を入れてくれる
ただ私のために

心をこめるでもなく
心をこめないでもなく
ただお茶を入れる
ただ私のために

目の前のあなたは
ただお茶を入れる人
それ以上でもそれ以下でもない

よくあることのようで
滅多に出会わない
稀有な時

お茶を飲む
ただ私のために入れられたお茶を
袋子、という産まれ方をする赤ちゃんがいるそうだ。

占い師のマドモワゼル愛先生が、今は亡きルルラブア先生が袋子として産まれた方だった、ということを書いていたものが目にとまった。

それで思い出したことがある。

昔、私の母(故人)が、私が産まれた時に私を取り上げた医者が「お、袋子だ!」と言ったことを誰かに語っていたのを聞いた。

その時は、それを聞いても私は何のことか分からず、興味も持たなかった。

最近になって、愛先生の文章を読んで、自分が袋子だったことを思い出したのだ。

袋子とは、羊膜に包まれて産まれてくる赤ちゃんのこと。

大変珍しいそうだ。

愛先生によると、まるで卵が出てくるような印象で、アメリカインディアンは袋子が生まれると、それは大酋長、すなわち、大シャーマンになることを意味するそうだ。

完全な袋子は大シャーマンで、数百万人に一人、生まれるかどうかであり、袋の一部を身につけて生まれてくるのが、小シャーマンといわれる、超能力者としての力を持つ人、これもかなり少ないが、稀有な才能の持ち主であることは変わらない、とのこと。

膜に包まれて産まれてきた赤ちゃんは、神秘的に見えたのだろう。
それでそのような言い伝えができたのだと思う。

私はどの程度の袋子だったのか、産んだ人はもうこの世にいないので、知ることができない。

私は、今のところ、シャーマニズムとは何ら関係のない、現実的でお堅い仕事に就いている。

それでいながら、スピリチュアルや神秘的なことに魅力されてやまない。

50歳を過ぎて第ニの人生を考えるようになった。

まさかシャーマンはないだろうと思うが。

第ニの人生も今の仕事の延長線上にあると思っているが、もし、別の道が天命だとすれば、抗うことはできないだろうと思う。