先週、7年ぶりに高野山に参った。

しばらくなぜだか空海のことが頭から離れないので、これは行かないわけにはいかないだろうと思った。
 
この7年の間に高野山は開創1200周年を迎え、観光客も外国人を含めて、随分増えたようである。
 
金剛峯寺に着くと人が多くて驚いた。
中で僧侶の法話の最中だという。
前回来た時も広い畳の部屋で僧侶の話を聞いた。
お茶とお菓子(おせんべい)が出てきたのが印象に残っている。
今回も同様のおもてなし。
 
弘法大師の肖像の前で、今回法話をされていた僧侶は剃髪されていない。
よくよく見ると、LGBTを支援している僧侶の柴谷宗叔さんではないか。
彼女は金剛峯寺で法話をされているのか!と軽く感動した。(大僧都であるから驚くことではないが。)
話の内容は、途中から聞いたので、どのくらい深い話があったか分からないが、私が聞いたところでは、「南無大師遍照金剛」の意味とか基本的なお話のようだった。
 
柴谷さんの存在を知り、女性の自分でも僧侶になれるかも、なってしまうかも、と思って勇気付けられるような、困ったような気持ちになった。
とりあえず、高野山大学大学院通信科の資料を取り寄せたのがほんの2週間前だった。
仕事が忙しいので科目履修生から始めてみようかと考えた。
本場の唐の文化人も舌を巻き、涙を流して許しを請うほどの漢文の達人だった空海の著作の原文を少しでも学べれば学位は取れなくてもいい。
高校時代、私は漢文は好きで成績も結構良かったが、空海の文は難解な漢字や用語が多く、たとえ書き下し文であっても、高校で学んだ程度の漢文の知識では全く歯が立たない。
 
実のところ私が僧侶になる必要性は全くないが、こればかりは自分の魂の望むところに従うだけだろう。
 
今回、金剛峯寺、壇上伽藍、奥之院、泊まりは、高野山大学すぐそばの宿坊「天徳院」と、前回とほとんど変わらぬ経路だったが、この7年の間で私自身が随分と変わってしまった。
これからもどんどん変わっていきそうだ。
 
 
 
昨夜就寝しようと寝床に横になったら、不意に死の恐怖に取り憑かれた。
空海の死を前にした言葉。
「止みね止みね 、人間の味を用ひず」
この言葉が頭の中にあったのだと思う。
空海は死ぬ前に食事を取らなくなり、弟子がお願いだから食べてくださいと言っても、このように答えて食べず、死の数日前から水も飲まなくなったという。

空海のことは措いておく。
昨晩、死んだらどうなるのか、という考えに取り憑かれ、急に恐ろしさに身が震えた。
若い頃にもそのようなことを考えることはあったが、この歳になって現実味を帯びてきた。
今現在、外の世界を知覚する主体である自分の存在がなくなる。
見えない。
聞こえない。
肌に触れる感覚もない。
そもそも、そんなことを思う自分がいない。
自分が生まれる前もそうだったはずなのだが。
そんなことを思ったら寝付けなくなって困った。

人類が、「自分は必ず死ぬ」ということを理解できるようになってから、ほとんど全ての人が考えたであろう疑問。
そして、人類史に宗教が現れるのも、ほぼ同じ時期であろう。

宗教は「死」に関して一定の答えを持っていることが多い。
人が宗教を信じる大きな理由の一つだろう。

かつて私がテーラワーダ仏教を学んでいた時の先生は輪廻転生を強調した。
輪廻転生を心の底から信じられなければテーラワーダの修行は始まらない、と言われた。
私は、信じることができず、したがって、テーラワーダの修行は、始まる前に終わった。
死んだ後に生まれ変わる、というのも「死んだらどうなる」の問いに対する明確な答えである。
証明が困難だが。

死んだら天国や極楽浄土に行く、という答えもある。
生きているということは悲しみや苦しみも多い。
特に死に直面している方の恐怖を和らげる優しい答えである。
やはり証明は難しいが。

そもそも、自分が知覚している世界自体が実は元々存在しない、だから、生も死もないんだという考え方も、哲学的に捉えるとありそうだ。
全く慰めになりそうにないし、現実的ではない。

そんな分からないことを考えるより、今を大切に生きていくことが大事だ、というのは、輪廻転生や天国より明確さの点で劣るが、より誠実な答えであると考える人も少なくないだろう。

結局、死んだらどうなるかわからない。
一つわかったことは、思いのほか私が「死」を恐れているのだということ。
そして、それはきっと死ぬまでなくならない。
それが生きているということなのだ、ということ。



若い頃から、漠然と、自分はいつか出家するんじゃないかなぁ、と思っていた。

仏教は、テーラワーダやら、禅やら、阿弥陀様やら、いろいろかじったものの、知的理解に留まり、心から行じていこうと思えるものには出会えなかった。

仏教含め既存の宗教は、私の心には響かなかったのだ。

かといって、自分で開祖になりますか?って、あり得ない。

そもそも人を救ったり教えをたれたり、が好きではない。

それは、如来や菩薩にお任せして、私は、その様子を眺めていたい。

職業としての僧侶には、魅力を感じない。

もちろん立派なお坊さんはたくさんいらっしゃるだろうが、自分がならなくても、と思う。

それでも尚、自分はいつか出家する、という思いが消えない。

なぜだろう?

これまでの自分の人生を振り返ると、このように漠然と「こうなる気がする」と思っていたことは、時間がかかっても、全て実現してきた。(そうです。引き寄せです。)

表層においては、僧侶にはなってもならなくても、どっちでもいい、と思っているが、心の底では、何かあるのか、と思う。

いや、既に心の底では、僧侶なのかも。