坐禅会でお世話になっている臨済宗のお寺のご住職から、よく西田幾多郎や鈴木大拙の話をお聞きしていた。

西田や大拙が空海に関しては、ガン無視だったことは、エンサイクロメディア空海に詳述されている。

近代の日本における哲学の礎を築いた西田幾多郎や、西洋にZENを紹介した鈴木大拙が、空海黙止というのは、真言宗信徒としては、寂しい気もするが、やはり、これは、西田や大拙の問題であって、空海や真言宗の問題ではないと思える。
彼らの感性には合わなかった。
南方熊楠や湯川秀樹には、バッチリ合ったようだ。
そんな感じ、私は妙に納得する。

ひょんなことから、今年の4月から、朝日カルチャー湘南の西田哲学の講座を受講している。
講師は、日本大学名誉教授の小坂国継先生。
1回受けてみて、結構面白かったので、続けて受けることにした。
せっかくなので、『善の研究』も読み始めた。

噂どおりの難解さであるが、第一編から第四編まであるこの著作は、はじめの方が難しく、後ろにいくほど読み易くなるという話を聞き、第四編『宗教』から読み始めてみた。
私が一番関心のあるところでもある。

『宗教的要求』は、その第一章にあたる。
もう、そのまま引用しよう。
「我々は自己の安心のために宗教を求めるのではない 、安心は宗教より来る結果にすぎない 。宗教的要求は我々の已まんと欲して已む能わざる大なる生命の要求である 、厳粛なる意志の要求である。」
「世には往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がある。しかし 、かくの如き問いは何故に生きる必要があるかというと同一である。宗教は己の生命を離れて存するのではない、その要求は生命そのものの要求である 。」
私にとっての魂の要求と同じだ。


そして、第三章『神』。
「統一的或者の自己発展というのがすべての実在の形式であって、神とはかくの如き実在の統一者である。宇宙と神との関係は 、我々の意識現象とその統一との関係である 。思惟においても意志においても心象が一つの目的観念により統一せられ 、すべてがこの統一的観念の表現と見なされる如くに 、神は宇宙の統一者であり宇宙は神の表現である。」
この「神」と大日如来を対比してみると面白い。

主客未分の純粋経験。
西田哲学を学ぶことで、真言密教を深められるか。
11月の後半は、イレギュラーの仕事が複数入り、さらにレギュラーの仕事も減らないので、とても忙しく、ブログを更新できなかった。

イレギュラーのうちの1つが、台湾への出張であった。

台湾からの同業者は毎年のように受け入れており、なるほど、親しみやすい国民性を感じていたが、今回初めて台湾を訪ねて、その想いを強くした。

国、といってよいか、といえば、日本政府としてはよくないのである。
現地に日本大使館や領事館はない。
その代わりに「交流協会」という機関がある。

いろいろ、複雑な事情はあるが、現地の人々はきわめて親日的、若者でも日本語を勉強している人が多い。
日本統治時代のレトロな建物も保存されていたりする。
外国に来た気がしなかった。

3日間の出張で、昼間は会議室に缶詰め状態で、宿泊先のホテルと現地同業者のオフィスビルとの往復ばかりだったが、唯一の観光らしきものをしたのがこちら。
台北101(画像はお借りしました。)

101階建てだそうだが、89階に展望台がある。
私が上った日は、天気が悪く、眺望良好とは言えなかったが(夜だったし)、世界一の制振ダンパーを拝むことができた。
こちらが世界一の制振ダンパーさま。
デカかった。
(画像はお借りしました。)

個人的には、台湾のお寺とか行ってみたかった。
交流協会の現地職員の話では、台湾の宗教は、道教が中心だそうだ。
といっても、仏教と習合しており、雰囲気としては、日本の神社みたいだ、という話である。
車で移動しているときに、時折、僧侶のような人を見かけた。
剃髪に頭陀袋、糞掃衣というにふさわしいような褪せた山吹色の粗末ないでたち。
修行僧だろうか。


駆け足の3日間の滞在で、十分に楽しめなかったが、飛行機で3時間程度、近くて近い外国、というのがあるのだ、と思った。


今年度最後の川崎大師教学研究所の公開講座。
福田亮成先生の「大日経とその教え」。

前回の金剛頂経の講座のときに、高野山金剛峯寺の金剛界曼荼羅を載せたので、今回は、その対となる胎蔵曼荼羅を。

さて、福田先生の『大日経』のご講義。
『大日経』の「入真言門住心品第一」についての書き下し文の解説が中心だった。

1時間半という限られた時間であるが、「住心本」のさわりの部分を読んで、『大日経』の雰囲気を知るには、十分であったと思う。

「住心本」の始まりは、いきなり、大日如来の住いたまう金剛法界宮に、一切の持金剛者が集まって、如来が説法をはじめる場面である。

キンキラキンの宮殿に仏さまたちが集まって、問答を交わしている光景は、なかなか、想像しがたいものらしく、福田先生も、インドやチベットの人たちは、このようなイメージが得意らしいが、日本人には、難しいね、と語られていた。

私、ぜんぜんオッケーですけど。
前から世界はこんな感じと思っていたけど、やっぱりそうだったんですね、というくらいに、納得がいく。

禅僧にはわかってもらえないと思うが、『大日経』の「住心本」を読むと、私は、『大日経』が、そして、密教が、大乗仏教の到達点であるとつくづく感じる。

空海も、久米寺で、これを読んで、大乗仏教の到達点だと思ったに違いないのだ。

それで、空海は『大日経』を学ぶために入唐を決意した、と私は信じる。
講座の中で、そうではない、という説もありまして、という話を福田先生がおっしゃっていた。
具体的にどんな説かは今回お話がなかったが、私の知る説の一つに、桓武天皇の特別ミッションの遂行のため、とかあるようだ。

謎の多い空海の生涯のなかでも、とりわけ謎なのが、入唐までの空白の7年どうしていたか、どうやって遣唐使の一員になれたのか、そのための費用はどのように工面したのか、の3点であるが、これらの謎は一直線上にあり、1つが解明されれば、ほかの2つも芋づる式に解明されるように思う。
空海と『大日経』の出会いも、大きく絡んでくる。

『大日経』は中身も不思議だが、人の運命も不思議に操っているのかも知れない。