久しぶりのブログ更新となる。

父の死から2ヶ月が過ぎた。

コロナや年末年始のバタバタの中で、父の住んでいた市営住宅の部屋の片付けになかなか取り掛かれなかったが、先週末にようやく片付けた。

といっても、遺品整理業者にお任せしたので、私がやることはほとんどなかったが。

4畳半と6畳の2間に、狭い台所とトイレがあり、お風呂は無し。

地位も名誉も財産も何も残さなかった。

でも、本人は至って幸せそうな晩年だった。

家財道具も少なく、遺品整理業者は手際良く、2時間程度で片付けてくれた。

細々したものの中から、写真や通帳、カード類などは仕分けして取っておいてくれた。

金目のものは全くなかったが、生きた証と言えば、まあ、そういうことだろう。



あの世には、本当に何も持っていけないのだな、と当たり前のことだが、全てを取り払ってガランとした父の終のすみかに佇みながら、しみじみ思った

思えば、親と子であっても、出逢いと別れがあり、まさに一期一会なのだ。

それでも、
幸せってなんだろう。
生きるってなんだろう。
そして、死ぬってなんだろう。
親は身を持って教えてくれる存在だった。

また会えれば。
どこかで。


2年前の10月31日に、このブログ記事を書いた。
この後、父は奇跡的に回復し、退院した。

持病の肺気腫のため健康な人の10分の1しか呼吸能力がなく、常にハアハアと苦しそうに息をしていて、見ているこっちの方が苦しくなってくるほどだった。
本人は見た目ほど苦しいという意識はないのか、活動的で、杖をついて一人で出歩いていた。

今年85歳、高齢者の多い風呂無しの市営住宅に一人暮らし。
そろそろ一人にしておくのも限界かと思っていた。
孤独死されるのが一番の懸念だった。

9月の終わりに救急車で運ばれた。
検査すると末期の肺がんだった。
あちこちに転移していて、もう医療でできることはないという。

積極的な医療はしない緩和ケア病棟に移り、1週間足らず。
11月1日に息を引き取った。

その前日に、病院に呼ばれて最後のお別れをした。
すっかり痩せて骨と皮だけ。

痛み止めの強い薬のせいで意識が朦朧としている。
手を握ると冷たかった。
これが生きている人の手かと思った。
「お父さん」と呼びかけると、うっすら目を開けた。
私が自分の名をいうと、聞き取れるか取れないかくらいの弱々しさで、私の名を呼んだ。
力を振り絞って声を出しているのだ。
こんなに弱っているのだ。
手を強く握って、「お父さん、ありがとう」と言ったら、父は少し笑ったようだった。
「ありがとう」と言っているようにも思えた。

死顔は安らかだった。
失踪してから30年以上経って、再会したのが10年前。
失踪中、父がどんな生活をしていたか知らない。
地べたを這うような生活をしていたのでは、と思っている。
でも、少なくともこの10年間は結構幸せだったのではないか。
昔捨てた子供たちは、全く恨みがましいことは言わず、優しくあたたかく接してくれた。

実際、私も弟も、父のことを全く恨んでいないのだ。
穏やかで、気が弱くて、馬鹿正直。
なぜか憎めない人なのだ。
もって生まれた人徳としか思えない。


私は、色々な意味を込めて、あらためて伝えたい。
「お父さん、ありがとう。」



10月25日の日曜、午前は藤沢で梵字の講座、午後は川崎で密教の講座と、心地よい気候の中充実の休日を過ごした。

さて、今月の川崎大師教学研究所の仏教講座は、種村隆元先生の「密教と現世利益」であった。

講座は、初期密教経典の『不空羂索観音神変真言経』の解説。
ざっくりいうと、マントラを唱えたりマンダラを作ったり蓮華をおいたりといった儀礼を行なうと願いが叶うよ、という話。
これで終わっちゃうと、はぁ?という話だが、ここから『金剛頂経』の話に移っていく。

中期密教の最高経典『金剛頂経』、非常に難解、私は理解し切っていないので、ここでは書かないことにして、ここからは私の個人的な思いを書かせていただく。

密教といえば、護摩祈祷、願をかけた護摩札を護摩壇でお焚き上げをしていただく、そんなイメージをお持ちの方が多いだろう。
私は、特に願をかけることなど何もないのだが、川崎大師教学研究所の講座の後は、いつも大本堂のお護摩修行に参加してから帰ることにしている。
日曜の午後4時からのお護摩修行、いつも2、30人の方たちが参加されていて、さすが厄除けで有名な川崎大師だが、まさに「現世利益」。

2週間ほど前、某臨済宗の坐禅会に参加したが、密教の護摩修行に参加する方々と禅宗の坐禅会に参加する方々って、仏教に関心があるという点では共通するものの、何が違うんだろう、と、ふと思った。

「禅」は、「ZEN」として、世界的にも認知されていて、マインドフルネスと名を変え、企業研修に取り入れられてさえいる。
密教の護摩修行などの修法は、熱心な信者か、よほど切羽詰まった事情でもない限り、(あるいは、私のように、護摩修行に、燃え、じゃなくて、萌えを感じる人でもないと、)なかなか、一般の人が定期的に参加しようとは思わないだろう。
「禅」に関心のある人たちは、願望や欲望をどちらかというと自らコントロールしたい人が多いように感じる。
せわしない現代を知的に生きるために、いかにも役に立ちそうだ。
うがった見方をすれば、自己のコントロールを目的とする禅は高尚で、願望や欲望を叶えるために護摩祈祷を行う密教は低俗なものと考えられているフシがあるのではないか。

自己をコントロールしたい、なんて、それこそとんでもない欲望なんだけど、と思うのだが、数年前までは、私も自己をコントロールしたいと思って坐禅をしていたのだ。

密教によれば、願望も欲望もある、この身そのままで仏になれるのだ。
現世で幸せを求めなくてどうする?
願かけ、護摩修行、いいじゃないか。
坐禅、もちろん、いいじゃないか。
自己コントロールしたいという思いもそのままで、法身大日如来と変わらぬその身の可能性を広げるように励むのだ。
空海は語りかける。
そう、己の庫を開くのだ。
あの力強い太鼓の音は、そのまま庫の扉を叩く音に聞こえる。
秘密の庫に眠る秘宝は己の裡にある。

ほら、ひらま君も。