10月25日の日曜、午前は藤沢で梵字の講座、午後は川崎で密教の講座と、心地よい気候の中
、充実の休日を過ごした。
さて、今月の川崎大師教学研究所の仏教講座は、種村隆元先生の「密教と現世利益」であった。
講座は、初期密教経典の『不空羂索観音神変真言経』の解説。
ざっくりいうと、マントラを唱えたりマンダラを作ったり蓮華をおいたりといった儀礼を行なうと願いが叶うよ、という話。
これで終わっちゃうと、はぁ?という話だが、ここから『金剛頂経』の話に移っていく。
中期密教の最高経典『金剛頂経』、非常に難解、私は理解し切っていないので、ここでは書かないことにして、ここからは私の個人的な思いを書かせていただく。
密教といえば、護摩祈祷、願をかけた護摩札を護摩壇でお焚き上げをしていただく、そんなイメージをお持ちの方が多いだろう。
私は、特に願をかけることなど何もないのだが、川崎大師教学研究所の講座の後は、いつも大本堂のお護摩修行に参加してから帰ることにしている。
日曜の午後4時からのお護摩修行、いつも2、30人の方たちが参加されていて、さすが厄除けで有名な川崎大師だが、まさに「現世利益」。
2週間ほど前、某臨済宗の坐禅会に参加したが、密教の護摩修行に参加する方々と禅宗の坐禅会に参加する方々って、仏教に関心があるという点では共通するものの、何が違うんだろう、と、ふと思った。
「禅」は、「ZEN」として、世界的にも認知されていて、マインドフルネスと名を変え、企業研修に取り入れられてさえいる。
密教の護摩修行などの修法は、熱心な信者か、よほど切羽詰まった事情でもない限り、(あるいは、私のように、護摩修行に、燃え、じゃなくて、萌えを感じる人でもないと、)なかなか、一般の人が定期的に参加しようとは思わないだろう。
「禅」に関心のある人たちは、願望や欲望をどちらかというと自らコントロールしたい人が多いように感じる。
せわしない現代を知的に生きるために、いかにも役に立ちそうだ。
うがった見方をすれば、自己のコントロールを目的とする禅は高尚で、願望や欲望を叶えるために護摩祈祷を行う密教は低俗なものと考えられているフシがあるのではないか。
自己をコントロールしたい、なんて、それこそとんでもない欲望なんだけど、と思うのだが、数年前までは、私も自己をコントロールしたいと思って坐禅をしていたのだ。
密教によれば、願望も欲望もある、この身そのままで仏になれるのだ。
現世で幸せを求めなくてどうする?
願かけ、護摩修行、いいじゃないか。
坐禅、もちろん、いいじゃないか。
自己コントロールしたいという思いもそのままで、法身大日如来と変わらぬその身の可能性を広げるように励むのだ。
空海は語りかける。
そう、己の庫を開くのだ。
あの力強い太鼓の音は、そのまま庫の扉を叩く音に聞こえる。
秘密の庫に眠る秘宝は己の裡にある。
ほら、ひらま君も。