前回のブログで、「今年は、私にとって転機となる年。」と書いた。

もうじき32年勤めた職場を去ることになる。

平成の大量採用時代に就職して、何が評価されたのか同期の中ではまあまあ出世できた。

この職場では、まあまあ出世すると、定年を待たずに辞職しなくてはならないという掟があって、ついに私もその掟に従って辞めないとならなくなった。

そのあとは無職となり、就活することになる。

 

再就職は大阪を考えた。

高野山に近いから。

南海高野線の金剛あたりに部屋借りて高野山に通うか、あるいは、高野山大学の女子寮に入れるといいな、などと夢は広がるのだが。(仕事する気ない?)

 

なかなか、そういうご縁に繋がらないんだ。

そちらではない方に呼ばれるんだ。

それはもう、運命に呼ばれる方に行くんだよね。

呼ばれない方に行くのはかなりエネルギーがいる。

こんなとき私は心より体が動くかどうかで判断する。

心は欺くことがあるが体はものすごく正直だから。

 

 

 

今年は、私にとって転機となる年。


少しずつ事を進めているが、本当にこの道でいいのだろうか、と思う。

なかなか上手くご縁が繋がらないのは、私の心の奥深くに何がしかの抵抗があるからだろう。

上手く繋がり出すと、何で今まで引っ掛かっていたのかと思うほどに急に進み出すこともあるから、今はその準備期間なのだと、自分に言い聞かせる。


空海には、空白の7年というのがある。

『三教指帰』を著した24才から入唐する31才まで、どこで何をしていたか記録がない。

おそらく、その頃の心情を書いたものに次のような文がある。


「弟子空海、性薫(しょうくん)我を勧めて還源(げんげん)を思(おもい)とす。径路未だ知らず、岐(ちまた)に臨んで幾たびか泣く」(『性霊集』巻第七)


仏弟子である私空海は、生まれながらに備わっている仏にならんとする心をはげまし、すべての本源である仏の境地にたどり着きたいと願っていたが、たどるべき道を知らず、分かれ道を目の前にして何度泣いたことだろう、というのだ。


空海でさえ道がひらけず何度も泣いたんだ!

大日経と出会って、遣唐使船に乗り込むまで。


勇気を持って生きなければ。

その時のために。


写真は、空海が空白の7年の間に通ったであろう、奈良南都の大安寺の弘法大師像🙏





今年は、空海の誕生1250年にあたるとして、真言宗の各お寺でも様々な法要やイベントが開催されている。


いつも教学研究所で勉強させていただいている川崎大師平間寺さんでも、もちろん、いろいろとご案内をいただいているが、そのうちの一つがこちらの講演会。

大正大学名誉教授苫米地誠一先生のご講演。



この2年ほどはコロナ禍のため、教学研究所の講座もご無沙汰していたが、4月16日には、久しぶりに福田亮成先生のお話をお聞きし、また、同じ4月の30日は、苫米地先生のご講演と、オンライン講座ばかり受講していたこの2年間を思うと、やはり対面でのご講演は、よいなぁ、と思うわけである。


苫米地先生のご講演は「弘法大師教学を考える」との題目で、配布された資料も、なかなかの難易度で充実した内容だった。

特に、「大師教学における教判論『弁顕密二教論』における顕密教判と法身説法説」の項は、昨年度履修した高野山大学の「密教入門」の科目とも関連が深く、大変興味深かった。


途中で会場の参加者から「難しい」との声が上がり、私には先生がお気の毒に思えたが、私にとっては大変興味深く意義深いご講演でしたよ、苫米地先生。


特に、先生が冒頭におっしゃった、若き日の空海が虚空蔵求聞持法を唱えて、金星が飛んできた体験で得たものが、釈尊が得られた覚りと同じものであった、というお話は、なるほどそう言われればそうかもな、と思った。

それまで、そんなこと考えたこともなかった。

私は、なぜ空海ほど頭のよい人が、仏教、とりわけ密教を選んだのか、いつもその理由を考えていて、やはりその理由は『三教指帰』をよくよく理解するしかない、と思っていた。

その中でも「明星来影す」は確かにキーワードに違いないが、これは釈尊と同じ覚りなのだ、と空海はそんなことはひとことも言っていないにしても、私たちがそのように考えるのは、ある意味当然かも知れない。


いろいろな研究者の話を聞くのは刺激的でもあるし、これからも、偏らずにいろいろな先生方のお話をお聞きしていきたい、と改めて感じた。


講演会のあと、お土産にひらまくんの「都こんぶ」をいただいた。

無料講演会にお土産まで。

川崎大師平間寺さま、太っ腹。



講演の後は、いつものように大本堂でお護摩修行に参加して、スッキリした気分で家路に着いた。

よい1日だった。