「モーニングページ」というのを試みに始めて1年経った。

モーニングページとは、毎朝ノートに思いついたことを書く、というシンプルなもの。

ジュリア・キャメロンさんの『ずっとやりたかったことを、やりなさい』(原題『The Artist Way』)に提案されている創造性を得るための方法の一つ。

いくつかルールがある。

・朝に書く

・A4ノートに3ページ

・手書き

・誰にも見せない

・最初の8週間は読み返さない

いずれもシンプル。

実はキャメロンさんの本は読んでいない。

オタキング岡田斗司夫さんのYouTubeを見て知ったのだ。

岡田先生によれば、日本人だとA4はデカすぎて心が折れる。

B5ノート3ページで十分とおっしゃる。

私はB5でも無理だった。

続けることを第一に考え、思い切ってハードルをB5ノート1ページに下げた。

時には朝ではなく昼あるいは夜に書くこともあった。

そこまでハードルを下げて1年続いた。







中身はお見せできるものではなく、字もかなり急いで書いているため、ミミズも恐れをなす程のったくっていて、自分でも読めない。

それでいい。

内容はなんでもよくて、そこにルールはない。

書くことが無ければ、「書くことない、書くことない・・・」とノートに書き続けるだけでもよいのだ。


この1年は激動の1年だった。

32年勤めた前職を辞して転職。

心が揺れ動く出来事もあった。

それでもモーニングページに書き殴ることで、あまり引きずらなくなったかなぁ。


人には向き不向きというものがあって、自分に効果があったものが他人にも同じ効果があるとは限らない。

私には、モーニングページは、自分なりにハードルを下げたこともあって、向いていたのかも知れない。

今まで坐禅や瞑想(ヴィパッサナー瞑想)などやってきたが、自分に向いていたとは言いがたい。

これらが向いている人というのは確かにいて、そういう人はやればいいと思う。

なんでも試してみて。


空海の『秘蔵宝鑰』に「顕薬は塵を払い、真言は庫を開く」という言葉がある。

坐禅もヴィパッサナー瞑想もモーニングページも塵を払う手段だと私は思う。

塵を払うのに、どんな道具を用いるかは、好き好きだろう。


では、庫を開くには、どうすればいい?

空海は、なぜ密教を選んだのか。

空海が表現者であることに大いに関係があるように思える。

空海の書にしても東寺や高野山の構想にしても、その独創性が日本史上類を見ないことは多くの人が語るとおりである。

庫を開くと、あんなに自由になれるのか。

空海は超絶的な表現者でありアーティストである。


モーニングページと並んで創造性を養うための方法として、キャメロンさん(と岡田斗司夫先生)がおすすめしているのがアーティストデートである。

こちらのルールもシンプル。

・週に2時間程度デートコースを決めて自分自身とデートする(一人で行く)

これだけ。


こちらも、近所なのに通ったことのない道を散歩するなどの近場での体験や、お絵描き、書道などおうちの中で体験できることも含めて、ハードル下げて1年やってみた。

少しずつでもやってみることが大事。

やはり外に出て歩くのが一番いい。

この世界、目にするもの、耳にするもの、全て大日如来の説法。

そして、うちなる如来の説法に耳を澄ます。


空海みたいなアーティストになれるかな。

少しずつでも庫が開くといいな。




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☆私の本棚☆

読んだ本について思うところを書いています。

あくまでも個人の感想です。

!!!ネタバレご注意ください!!!

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当ブログの「空海を訪ねて」シリーズでは、私なつくさはちまちまと畿内や四国をまわっているが、入唐留学した空海の唐・長安までの道のりも辿りたい、という欲求も当然ながらある。


しかしながら、仕事もあるし、なかなか事情が許さない。


ところが、なんと40年も前にこれを実現した昭和の大作家がいらっしゃった!


今回ご紹介するのはこちら

松本清張著

『密教の水源をみる 空海・中国・インド』



空海と清張先生、意外な取り合わせとも思えるが、これは労作ですよ。

以下、wikipediaより抜粋

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『密教の水源をみる 空海・中国・インド』は、小説家の松本清張による著作。

(中略)

平安時代初期の僧・空海の入唐前後の事情や、古代インドで成立したとされる密教の発生・伝来に関する著者の推論を交えながら、中国・インドの各地をたどる紀行エッセイ。特別番組「松本清張、密教に挑む-マンダラに宇宙を見た」(1984年3月27日放送、朝日放送制作)の取材班への同行記録となっている(取材期間は1983年5月25日ー6月13日(中国)、1983年10月1日ー10月13日(インド))

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概要としてはwikipedia記載のとおり。


テレビの取材だったのね。

1984年はなつくさは大学受験浪人生、この番組のことは全く知らなかった。

テレビなんか見なかったし。


日本が世界の中でも大金持ちだった頃。

バブル前夜。

中国、インドを下に見てた頃だよなー。

このご著書を読んでいても、そんな時代がひしひしと感じられて、今の日本は〜、とか思ってしまった。


清張先生は密教や空海のこと、よく勉強されて取材に臨んでいらっしゃって、作家というのは偉いもんだな、と感心する。


本書の中国篇Ⅰでは、遣唐使船で福州に流れ着いてから中国大陸を北西に向かい長安に到着するまでの道のりをたどる。

空海が実際どのような経路をたどったかは不明であるが、おそらくこんな感じだろう、という経路を列車や飛行機という現代の利器を用いて行く。

要所要所でホテルに滞在して、現地の様子などを取材して歩く。

清張先生取材時から40年経っており、21世紀の現在、現地の様子も変わっただろう。


中国篇Ⅱでは、空海が密教を学んだ長安、現在の西安で、空海の活動を探る。

空海が滞在した西明寺は大衆食堂が並ぶ雑駁とした街となっており、空海が恵果阿闍梨から密教を伝授された青竜寺は復元工事の最中だった。


清張先生は、さらに足を延ばして空海は行っていないインドまで行っている。

インド篇では、玄奘三蔵が学んだナーランダー寺大学など。

空海も行きたかったかもしれないが、その遺志を継いだ弟子の高岳親王も辿り着けなかった。


清張先生の考察も、従来宗門(真言宗)の学者や僧侶の説とはひと味違って興味深かった。


一番斬新なものとしては、密教を大乗仏教の中に入れるのは大乗仏教の拡大解釈すぎるのであり、中国で成立した密教は、バラモン教とヒンドゥー教の両方がともに形を変えたもの、またはその翻案であって、仏教とはまったく違ったものである、というもの。

これについての是非はともかく、実際に中国、インドを歩いての考察として耳を傾ける価値大いにありと思う。


中国に密教や仏教が入って来た時に、道教に見せかけていた時代があって、そのあたりの清張先生の考察も面白かった。

(特に私は最近道教、特に荘子の思想にハマっているので。

鎌倉時代に日本に入ってきた浄土系仏教や禅も、かなり道教入ってるよね。

もはやインド仏教でなくなっている気がする。)


清張先生が空海をどのようにご覧になったか。


三教指帰から入唐までの空白の7年を大安寺などで、得度した沙弥ではなく、雑用の「寺男」的な優婆塞をしながら、中国僧について中国語を習得したのだろう、たいした勉学心とその努力だと感じる、と書かれている。


空海は天才とか超人とか言われて、彼の成したことがいとも簡単におこなわれたかのように思われがちだ。

確かに生まれ持ったものがそもそも違うというのは感じるが、それ以上に、空海の努力や意志の強さなどがあって、初めて「空海」になり得たのだろう、と私もあらためて思う。


本書は、最後に、中国では廃れた密教が、チベットや蒙古で密教の変形たるラマ教が行われる中、中国密教とは離れた真言密教を日本に創始し、現在に継続させている空海は、やはり稀有の才能と努力の持主だったといわなければならない、と締めくくられている。


清張先生は、空海の真言密教を、中国密教とは異なる大乗仏教である、と認めておられたのだろうか?


個人的には真言密教が大乗仏教であろうがなかろうがどうでもいい。

真言密教の価値に変わりはないから。


空海を訪ねてシリーズ2023晩夏編のラストは悠久の時間を越えて明日香の地にあるお寺。

真言宗豊山派川原寺跡弘福寺。

空海が東寺と高野山の行き来の途中で休憩する宿舎として使用したというお寺。





川原寺の名は空海関連書にもあまり現れない。

ド定番の司馬遼太郎著『空海の風景』には、伊予親王が幽閉された場所として記されているが、空海との直接的な関係は触れられていない。


私が川原寺の存在を認識して「ここに行ってみよう」と思ったのは、『空海大字林』の編者である、書の研究家飯島太千雄先生のご著書『空海入唐 虚しく往きて実ちて帰らん』に川原寺が紹介されていたのを読んでからである。

空海入門書としてバイブル的存在である『沙門空海』をみると、『御遺告』の第三条に「弘福寺」の名がみられ、『年譜』によれば天長元年(824年)7月に、淳和天皇が空海の京都・高野山の往還の途中の休息所として与えたという伝えを載せている、とのこと。


かつては、大安寺・飛鳥寺とともに奈良三大寺といわれていたが、現在はかつて敷地だったであろう草っ原の真ん中にお寺がこじんまりと佇む。


天武天皇の時代に一切経の写経を行ったところだそうだ。
当時の川原寺の伽藍配置は珍しい『1塔2金堂式』という珍しいもの。
草っ原の中に当時の礎石が復元されていた。
ちょっと見づらいが、案内板。


天武天皇の頃の瑪瑙の礎石も残っていて手で触れることができる。


お寺の方がとても親切に説明してくださった。

弘法大師のスゴいファンなんです、と伝えると、12月に弘法大師お誕生1250年の記念講演がありますからぜひお越しください、とおっしゃった。


写真はパンフレットから。

弘法大師作と伝えられる多聞天さまと自国天さまがご本堂をお守りされていた。


1200年前に空海がお泊まりになったのはこの辺りか。



道路を挟んで弘福寺の真向かいにあるのが、聖徳太子の橘寺。




さすが明日香は古いお寺が多い。

空海も川原寺に来た際に訪れているはずだ。


飛鳥時代の石造物の二面石。


阿字池。


往生院の天井には260点のお花が描かれている。

写経場として用いられているそうだ。





最後は飛鳥寺。



飛鳥大仏撮影OKだった!

聖徳太子と蘇我馬子が鞍作鳥に造らせたという日本最古の仏像。

重要文化財であるのは度重なる火災のため補修箇所が多いためらしい。

お顔は当初の面影を残し聖徳太子にも似てらっしゃるかも知れない。


飛鳥寺は真言宗豊山派のお寺。

大仏さまの両側には両界曼荼羅があった。

弘法大師像もあった。


飛鳥といえば万葉。

私は昨年度1年間に渡りNHKラジオの古典講読「歌と歴史でたどる『万葉集』」で勉強した。

万葉集は空海より前の時代のものであり、万葉仮名ではあるが日本語で詠まれたものだ。

不思議というべきか、空海は漢詩しか詠んでいない。(私の知る限り。)

当時最高の知識人、教養人であった空海は万葉集読んでないのか?

和歌を詠もうとは思わなかったのか?

あんなに漢籍には詳しい、詳しすぎるのに、日本の文学には興味なかったのかなぁ。

万葉集が当時文学というほどのものではなかったのか、文学を含め当時の教養が中国寄り、というか、ほとんど中国だったのだろうな。

などと明日香を巡りながら、ふと思った。