この時
20年近く前の
このことを
思い出し
何度も
何度も
泣き崩れたのは
そこに
二度とない
瞬間を
刹那を
感じたからで
もう
それだけで
生きていくのだと
思った
でも
心残りなのは
そこに二人の娘を
連れて行けないこと
だった
朝から晩までのこの
気の狂いそうな
スケジュールを
こなしてこられたのは
息子への愛
だけでなく
いつも
弟のリハビリを
手伝ってくれていた
戦友でもある
二人の娘にも
外国での診察という
貴重な体験を
見せてあげたい
一心だった
でもこのとき
同時多発テロの直後で
アメリカは
物々しい雰囲気が
漂い
更に
ニューヨークは
50年に一度の寒波が
やってきていて
SARSも流行っていて
現地には
ボランティアさんが
いるものの
多動の障害児を連れての
英語が話せない
わたしたちの旅が
簡単ではないことは
容易に
想像がついた
それでもわたしは
家族皆で
渡米することを
疑わなかったが
夫や実母に
娘たちを連れていくことを
反対されたとき
ここまで
相当な我が儘で
周りを巻き込んできたことを
思うと
これ以上
その反対を押し切ることは
出来なかった
だから
娘たちに
自分の弱さを
何度も泣いて
詫びた
そして
少しでも娘たちの
寂しさが
和らぐようにと
留守中の夜毎晩
絵本やおもちゃや
手紙という
家中に隠した
宝物の
宝探しをするように
宝の在処を書いた地図を
実母に託し
娘たちを頼み
夫と息子と三人で
フィラデルフィアへと
旅立った