息子りんが
その後
息子の
でも
初めて
療育手帳をもらったのは
2歳半のときで
息子が
診断され
1ヶ月入院し
その後
様子をみた
約半年後だった
そして
当時
世界一の
脳障害の情報を持ち
天才でない子どもには
一人も会ったことが無い
という研究所の
脳障害の
リハビリをする
準備も進めていたので
療育手帳の
判定結果が
全てではないのは
分かっていたが
自閉傾向のある
測定不可能の
最重度の知的障害児
と判定されたときは
元夫と
その場で
そしてその後
二年ごとに
息子は
判定を受け
わたしはいつも
聞かれた
息子の様子と
共に
息子の
わたしの子育てなども
伝え続け
関係者の方と
行政と保護者を超えた
分かち合いがしたい
と思っていて
それが
一瞬でも
出来たときは
帰宅途中の車で
号泣した
でも
療育手帳を
貰い続けた
17年のほとんどは
一般的な
やり取りで
それが
普通だろうし
それが
今のわたしには
最善とは
わかっていたし
自分が
望み過ぎていて
諦めが悪いことも
自覚しながら
でも
いつも
悔しさと
悲しさと
自分の力の無さに
泣きながら
家に
帰っていた
そして
わたしは
一生
息子に
手当てを
貰うつもりはなく
いつか
療育手帳から
卒業し
息子は
自分の才能で
生きていってほしい
と思っていたので
息子が
アーティストという
天職を見つけて
数年後の
20歳を前に
関係者の方から
面談と判定の
連絡を頂いたときは
卒業もそう
遠くないなら
分かち合える
分かち合えない
関係なく
この経験を
楽しもうと
思った
そして
初めて
ワクワクしながら
面談に向かうと
若い男性の
担当者さんを見て
わたしは
一瞬で
この人、好きだ
と思った
だから
わたしは
いつもより
本音で話し続けると
わたしは
信じられなかった
そして
息子のことだけでなく
わたしの
生き方に触れると
わたしたちには
直感で生きている
という共通項も
見つかり
この会話を
楽しいとまで
言って下さり
わたしも
楽しくて楽しくて
仕方がなかった
そして
息子を知ってもらう
材料の一つとして
このブログと
その中の
自叙伝というテーマを
お伝えすると
読みます
と言って下さり
わたしは初めて
信じられないような
満たされた気持ちで
帰路に着いた
次回の
息子と行く予定だった
療育判定は
わたしも
行かない
と思ったが
息子も
行かない
と言った
だからそれを
その方に
正直に伝えると
その方は
わたしのブログの
108話までの
自叙伝だけでなく
当時
800以上ある記事の
全てを読みました
と言った
そして
最初わたしが
療育手帳をいつか
卒業しようと思う
と言ったときは
まだ
先だろうと
思ったが
ブログを読んで
それが近いと
思いました
と言い
わたしは
その
分かち合いしかない
奇跡に
電話を切って
泣き崩れた
だから
息子が
20歳を過ぎて
流れや
タイミングを
見て
いつか
療育手帳を
卒業するときは
訪問させて貰います
と言うと
担当の方は
お話がしたいです
と言ってくれ
わたしもです
と言い
電話を切り