近頃では、電子書籍も浸透してきたのか、電車に乗っているとタブレット端末をちらほら見かけます。メリットはあるんでしょうが、いまいち魅力的に感じない海津です。
というのも、わたしは思うことあればメモを書き込んでいくのです。勿体無いかもと思いつつ、その瞬間は二度とないものですから、やっぱり書き込む。後から読み返すと、自分ながら新鮮な気持ちになるんです。ああ、この時はこんなこと思ったんだと。
鞄には数冊の文庫本を入れているんですが、カバーも特に着けないし、しおりではなく表紙の折り返しで挟むものですから、一冊読み終える頃には、本がボロボロになっていまして、表紙もどっかにいって、剥き出しの赤裸々な姿になっています。わたしは読書に敬意を込めて『一戦交える』と呼ぶ。読書は闘いなのです。
季節は朝な夕なに、秋を感じるところで、木々の葉が色づく小径(こみち)を本を片手に歩くのを想像すれば、腰を掛けるに適当なところを探すという体で、辺りを散策するもよし、乾いた野原に寝転がるのもよし、本を開く前から、本を開いたような心持になる。
そんな時の流れはゆるりとしていて、ひたひたと微睡(まどろ)むうちに日は暮れて、また、秋だな、と染々思うんでしょう。
読書の秋と申しますけれども、一年を通してなんやかやと本を読んでいると、秋という季節は思い返すといイメージがあって、冬を迎える前に立ち止まってみたくなる。感覚的に、たぶん、冬がわたしには始まりの季節で、経験的にも大きな動きがあるんです。
そう考えると、冬に備えるという意味合いから、秋に多くを取り込むということで読書の秋なんでしょうかね。それにしては随分と穏やかな季節に思うところですが。
歳を重ねる毎に時間の流れは早くなり、それと同時にうねりみたいなものを感じていて、中でも秋は音のない干満のように思えてならない。意識を鋭敏に保っていないと、色んなものを見落とすような。得るべきもの、というと厳(いか)ついんですが、例えば、落ち葉に埋もれた渓流の水を両手で掬うとして、そこに何もないと、流れに戻した後、見るべきは水に溶け込んだ落ち葉のいろであったことに気づく、というような。そうしたものが其処彼処(そこかしこ)にあって、そうしたものは逸(はや)る気持ちを留めて立ち止まって
みなければ気づかない気がする。
去年の暮れから濫読はやめにした。多くを急いて読むことに疑問を感じた。気づいたら外書の割合が半数をこえた。
わたしの好きなあるひとがいっていたけれど、季節は来るものか、迎えるものか、追うものか。
そうして、わたしは迎える半ばのところに秋が来た。