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言葉で写真を撮ろうか

海津の手元には自分の写真がない。だから代わりに言葉で撮る。だって物書きだもの。


わたしの好きな音楽家、ピアニストにグレン・グールドというひとがいる。

クラシックを聴かれる方なら知らないひとはたぶんいないくらい有名なひとなので、わたしが説明するまでもないのだけれど、不思議なほどに親しみを感じるものだから、わたしなりに書いてみたいと思う。

グールドは、たぶんバッハをピアノ演奏することで知られている。わたしが知り合いに薦められて初めて聴いたとき、芸術性どうこうというより、アーティキュレイション(音の区切り方というか明快さ)が気になって気になって仕方がなく、どちらかというと嫌いな演奏だった。何ていうのかな、音が固いと表現するひともいるでしょう。

ちなみに、曲名はゴールドベルク変奏曲という。わたしの知人が一時期バッハのギターアレンジを熱心にしていたから、その関係でグールドを聴いていて、わたしに薦めてくれたわけだ。ただ、先に書いたような印象であったから、わたしはうまく言葉がでない。というより、ひとりで落ち着いてじっくり聴かないと、わたしはうまく反応できないというのが正しい。

ここですでに個人的に不思議なことがいくつかあるのです。この曲はだいたい50分くらいの演奏なんだけれど、この曲を聴くまで、こんな長い曲に最初から最後まで耳を傾けた記憶がないということです。

わたしの周りはいまとてもゆっくりと時間が流れていて、見方によってはとてもはやいんだけれど、だいたい何をするにも小一時間はみてるし、かかる。

グールドのこの曲は、たぶん一般的にいって長い。その時間を特に意識することなく、聴けているという事実がまず不思議。それがわたしの在り方によるものなのか、演奏の持つ力なのかは置いておく。

バッハのこの曲はもともと、チェンバロという楽器で弾かれていたもので、チェンバロというのはピアノみたいな楽器なんだけれど、音の強弱がない。ピアノにアレンジすると、ピアノは強弱がある楽器であるから、当然強弱が生まれる。音の幅も増える。

大事なことは、チェンバロだから、ピアノだからとその楽器で優劣を決めることではなくて、ピアノのない時代、強弱もタッチもない楽譜から、グールドが豊かでロマンチックな演奏を引き出したということにあると思う。

わたしは家に戻って、シャワーを浴びた後、この曲をたいてい聴いている。侵されない時間に、じっと耳を傾けている時、今までとは違い、曲から風景、光景をイメージするのではなくて、純粋に音の広がりを楽しんでいる。ピアニシモからフォルテシモ、そして彼独特のアーティキュレイションは曲そのものを強烈なインパクトで表現しているのだけれど、聴いているわたしは、それに反して完璧といっていいくらいにリラックスしている。寝る前にも必聴いていてそのうちに寝てしまう。

彼の演奏を聴いていてつくづく感じるのは、本当に音楽のことしか考えていないのだという安心感と、音がかわいらしくあって、力強くて、闊歩して、くつろいぐその表情の豊かさにあると思う。

物事に対する真摯さであるとか、素直さは音にも、文章にも表れる。

グールドはある時期からコンサートやめて、スタジオ収録のみの活動に絞った。その意図は何となく理解できる気がする。

グールドの半生に興味は特にない。演奏家は演奏に、文章家は文章に。それ以上の、それ以外の意味はまったくない。













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