先月からどうも体調を崩し気味で、ここ数年無縁だった風邪をこじらせて長引いている次第です。
執筆のことについていえば、今書いている長編を自分なりに完成させようというのが第一で、それを過ぎれば、いよいよ投稿を中心に執筆を進めることになると思います。
自分としては、長編を軸に短編と童話とエッセイを書けたら、特にこの世に望むものがない。
そういえば、文学談義も頭の片隅にあってこのエッセイを始めた気がするのですが、そこに触れることも大してなくて、また、その想いも様々であったりするのだろうと想像すると、なんだか引っ込み思案になってしまう。
ただ、文章を書く前に物語はまぁいいとして、その根本的なテーマについて考えるとき、やっぱり書くべき、というか言いたいことはあるわけで、それはそのまま文学談義のテーマになるのかもしれない。
そもそもわたしの中で少なからず疑問としてあることに、『誰々の影響を受けた』というのがある。
誰にだって影響受けるだろう、というのがわたしの言い分で、上の『』は『中でも』が抜けているように思うし、それはそれとしても、やっぱり答え切れる数でもないように思うのです。
そもそも、わたしは本が好きで書き始めたわけではないから、そこが違うのかもしれない。好きになったのはここ数年のような気がするし、『本』と同等くらいに『言葉』が好きなのです。
ちょっとスピリチュアルな話といえば話なんですが、わたしは言霊というものを漠然と信じている。言葉というのは、気持ちがそこに込められてなければ効果が失われたり、また逆の意味を持ったりする。説明文や、論文には一見なさそうに見えて、そこに丁寧さや、真摯さが見て取れれば、自然と説得力が増すように思う。
わたしがそこらへんを歩いている女性に「好きです」と言ったところで、白い目を向けられるか、無視されると思うのですが、それなりに関係が進んでいて、相思相愛に近い状態であれば「好き」という言葉の意味は違うと思うのです。
そう考えると、ひとつの言葉には随分と幅があるといって差し支えなくて、そんな幅がある『言葉』が好き、というのがわたしの好きです。単純に『言葉が好き』というと、変に深読みされて美文を好む人と思われたり、する。わたしは志賀直哉は読んだことありません。
わたしが思うに、文学の真骨頂はひとの心をかくところにあって、その心が生まれる状況を書くところにあると思うのです。
具体的な言葉が、読む人のすべては疎(おろ)か、多くに深くまで染み込まないように、逆を言えば、読む人が各々に形を変えて想像するからこそ、ひとに適ったものになると思うのです。
わたしにとって具体的な言葉は、こころというものの輪郭を求める補助に過ぎない、というところです。
抽象から具象へのベクトルは、否がおうにも限定的なものにしてしまうけれども、俳句における言葉のひとつひとつには、限定的というよりそこに深みと広がりがあるように思うものです。
それは言葉という窓を通じて世界を窺おうというベクトルを持つからではないでしょうか。
わたしがこんなことを書くのには理由があります。文学の世界では、たぶん『わかりやすさ』というのが常に問題になっています。そのわかりやすさとは、具体的な言葉で書かれることを意味することが多いように思います。
ただ具体的な言葉で書かれた物事というのは、ほんの一部分しか書くことが出来ません。それは、結果的にある物事に関して正確に書いているとは言えないと思うのです。何よりわたしにとってはつまらないと映る。
と、ここらへんで一度文学談義を締めたいと思います。また、いずれ。
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