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言葉で写真を撮ろうか

海津の手元には自分の写真がない。だから代わりに言葉で撮る。だって物書きだもの。


体調が少しずつ戻ってきまして、こうして書くことも出来るようになりました。皆さんのお心遣いありがとうございます。

さて、するすると文学のお話も進めようかと思います。

わたしは、精神的にじじぃだからか知りませんが物欲に乏しいんです。

なんで物欲に乏しいかといえばそこに形があるからで、その形は他人が作ったものだから、自分の求めるものと合致しないんです。そこに妥協が生まれる。もうちょっとここがああだったらなぁというように。

そして、物は最終地点ではなくて媒体なんですよね。それを使って、満足して、こういう心地になりたい。二度手間じゃないですか。

言葉は正確にいえば何物もいい表せません。例えば、『椅子(いす)』。『椅子』と聞いて皆さんは思い思いにイメージするでしょう。それが100人いたら、100通りの椅子が出来る。ですから、同じ椅子をイメージさせるのは無理なのです。特定の椅子を伝えたいのなら絶対に写真や実物を見せることには勝てません。ただ勝つ必要もなくて、そこには皆さんの想像した『椅子』があるのです。とても単純な話ですが、とてもすごいことで、とても大事なことだとわたしは思います。

自分というものを求めれば求めるほど、自分にとって相応しい形を求めるのは自然なことではないでしょうか。その時、他人が作った形ある『物』ではなくて、自分の思うがままにイメージできる『言葉』が適当に思うのです。だからわたしは言葉を選ぶのです。

『本』というのは、たぶんひとの引き出し開けたり、引き出しを作ったりするものと思っています。それは、言葉と読む人の人生の断片が結びつくからで、それはそのまま読む人によって意味が変わり、或いは深くなり、広くなるということで、そこに驚きがあれば、引き出しを作るということになると思います。根本的なテーマが『ひと』であるなら、それは出会いとも呼べると思います。

わたしは『本』を書く行為が、そして『本』そのものを『ひと』或いは『会話』と捉えていて、というのはそこに共感があるならば、それは読む人の話を聞くこと、好奇心を刺激したならば、それは話すことだと思っています。共感というのは、自分という人間を理解している、と思うからこそ生まれるのであって、会話というものが理解のない、また、その意思のないところで円滑に進むとも思えません。

本を読む行為は先の『椅子』の話のように、読む人の個々のイメージと、それに構成された世界の中で進むわけで、その世界観が強くなればなるほどに対話はデリケートになる。何故なら、漠然とした椅子であったものが、その世界の時間軸が進むにつれ、形と色彩、そして質感までが明確になっていくからです。

『本』を読み終える頃にあなたは、あなただけの『椅子』を作り上げる。わたしがしたいことはその『椅子』と、もう一つまったく別の『椅子』を作り上げることで、その対峙なのです。そこにはたぶん、想像以上のインパクトがあって、日常というものがぐっと広がるような、一新するものがある気がする。

そこから逆算して自分の段階というものが生まれて、自分の見えている世界があって、わたしの部屋のそこら中に本が散らばっている。

これがわたしのわたしにおけるアイデンティティのようなものであったりする。

引用すべき著者も、物語もない、文学と呼べるかもわからない話。

と、今回はこのへんで。









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