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言葉で写真を撮ろうか

海津の手元には自分の写真がない。だから代わりに言葉で撮る。だって物書きだもの。

休日のとある形として、あれこれと予定を考えながらも決めきらずに家を出て、よくわからない無意識の優先順位による消去法に従って、近くの服屋を覗く。

ここ数年いわゆる金銭的な問題でセレクトショップを覗くことははなくなり、そのくせ着てる服はなんだかんだと好みに従うとブランドものになっていて、接客される鬱陶しさを含めると、自然、出入りするのはリサイクルショップになったのです。というわけでわたしの中で服屋=リサイクルショップとなりました。

リサイクルショップは一言で言うとかなり安い。わたしの買う服だと、50~80%OFFくらいで買えるのです。もう一言言えば、いっぺんに色んなジャンルの服が見ることが出来、加えて色んな年齢層の、色んなお洒落が見ることが出来て楽しい。

わたしは値札を見ずに、値段を当てるのが好きで。流行はよくわからないけれど、素材だとか、パターンだとか、縫い方だとか、色とか見ていって、こんぐらいの値段かなー?と思って値札をめくるわけです。

いっつもそんなことしているから、結構あたるんだけれど、この時何となく、「おうおう、わたしも時代わかってんじゃーん」と心中で呟いてほくそ笑む。こんな感覚で株を買えば儲かるだろうなと邪推も混じえつつ。

で、服を選ぶ時の楽しさというのは、服を着た時の楽しさに直結していて、わたしってば単純なものだから、お気に入りの服を着ていると嬉しさというか楽しさが雰囲気に出てしまう。そして散歩をしたくなってしまうのです。

試着するのが面倒で、自分のサイズは常に把握しているし、その読みが外れて大きすぎたり、小さすぎたりすると、こういうパターン(服の形)は
太く、細く見えるんだなぁとか、自分の目も大したことないなぁと思ったりして、そういうのも含めて楽しいのです。

ひとつ書き加えるなら、衝動買いをして失敗することはたくさんあるし、専門店に行って見栄を張らずに色んなことを教えてもらうことはたくさんありました。

例えばスーツでどこを見るかというと、座っている時に首の襟の折返しの下を見るのです。そこに皺が寄っているとサイズが合っていません。後は肩幅が合っていないと、スーツやジャケットは重く感じますし、疲れます。いらない方向に力が掛かっているので長持ちもしないのです。

ということは、肩を軸にしてジャケット全体のバランスを見なきゃいけないわけなんですけれど、流行りの細身のスーツは正面から見たときの首からそれぞれの左右の肩までは長さを合わせていても、肩から背中を回って反対側の肩への距離を適当にしていることがちょいちょいある。後者が適当だと着心地はよくない。

そういうのは何度も袖を通してみないとわからないし、売りが過ぎる店員さんに当たるといい加減なアドバイスをされて買わされてしまう。

何かの雑誌で「着たい服を着るべき」ってのと「似合う服を着るべき」ってのがあって、言うまでもなく前者ってのは絶対的な感覚なわけで、後者が世間を気にした相対的な感覚だな、と思ってたんだけれども、後者でも、世間とか関係ないところの、絶対的といわれる個人の中でも「これ、ないわ~」てのがあることに気づいて、(端的に言えばパリコレの服で恰好いいと思いつつ、着る気は起きない感覚)、自分の感覚はどっち?と疑問に思ったりする。

そうそう、お洒落っていうとやっぱりイメージしやすいのは服や装飾だったりして、それが部屋や、車に及ぶと思うのですが、なんで言葉には気軽にお洒落とかないんだろうって思う。

そこらへんは固く文学的に言えば『文体』って話しになるんだろうけれど、あってもいいでしょう?よく使うのですから。

お洒落な言葉、会話=BARという的外れかもしれないイメージも抜いて、もっと言葉も愛(め)でようよ~と思うわけです。

ある種(あくまである種)の一般性のところに2chてのがありまして、わたしとしてはあれのリアルタイムのやり取りを読むのは文章的にきつくて参っちゃうんですが、『まとめスレ』と呼ばれる、かい摘んで読みやすくされたものは時々読むんです。そこで、ふと、2ch用語と呼ばれる特徴的な言葉使いは言葉のお洒落というか、ファッションに近いなと思ったのです。

同音意義語を駆使した漢字の当て方とか、独特の言い回しとか、時に人格を疑うような見たくないものもありつつ、言葉をいじいじしようという感覚には共感できるものがある。

いつだったか、文学的、それも純文学的なところで、最近の流行作家は!、テーマは!、というトレンドやたらと詳しく、読書量もわたしと比較にならないくらい多いひとと話したことがあったんですけれど(読書量は尊敬しつつも、どことなく疑問を抱かせる人物)、ここ10年の出版されたものにほとんど興味が湧かない爺の海津は、参考にはしつつも、そのひとの言うトレンドがいまいちピンとこない。

何故かといえば、今となっては古典と呼ばれる近代の文学に何かしら共感を覚えるとして、その共感は時代を超えることで普遍性を示唆するなら、それが軸にならざるを得ないというのが一つ。

テーマはいくつでもあるだろうとは思うけれども、その文章に人となりが表れるとするならば、個人の抱えるテーマ以上に真摯に書けるわけがない、というのが一つ。

それを踏まえてトレンドとは何かと考えると、既に出版化されたものの中からそれを導くっていうのはトレンドとは思えないんですよねわたしには。どうでしょう。


そういう意味では例え、説得力ある形として成立してはいなくても、語感や、言葉をつくろうっていう、世の中の無意識な感覚は共感出来るし、好きだなって思うのです。

例えば、顔文字は元々記号なわけだけれど、端的に感情や心情を表現する手段としては、その浸透速度と、もはや一般化されている事実も含めて秀逸だと思うし、その発想は、本質的に象形文字と何ら代わりがないくらい革命的なことだと個人的に思っているけれど、そこらへんの社会的評価は低い気がする。そう思いませんか?


新聞の1面とか、なんたら白書に載ってもいいくらいの出来事だと思うんだけどな。ま、わたしがこうしてここで文章で書くときに出ることはありませんけれど、と申し添えたところで筆を置く。










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