言葉で写真を撮ろうか -19ページ目

言葉で写真を撮ろうか

海津の手元には自分の写真がない。だから代わりに言葉で撮る。だって物書きだもの。



 山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画(え)が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向う三軒隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば、人でなしの国に行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶(なお)住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という転職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、ひとの心を豊かにするが故に尊(たっ)とい。


夏目漱石著『草枕』より、冒頭。



 ある人はわたしに問うた。

「あなたにとって、文学とは何ですか?」

わたしは答える。川です。

「何故川なのですか?」

 哲学は山です。文学は川です。詩は海です。山からとうとうと流れて、海に辿り着くのです。

「では何故詩ではなく、文学を選んだのですか?」


 わたしはその時、山から転がってくる岩を思い浮かべた。川に流され、底を転がり、砕け、削られていく石。海に辿りつく頃に、どれだけの大きさであることだろう。

 その大小を比べたところで、海はそれより尚広く、どれほどの大きさであろうとその石を見つけることは叶わないだろう。儚いものだ。ならば川を書こうか。


 川は道程です。物語です。岩が転がっていくように、ひとの転がる様を書きたいのです。なぜかはわからない。


 もう随分と前の、書き初めの頃だったから、漠然としていたように思う。


 わたしはその問いに今ならこう答える。わたしの答えはあなたの問いそのものです。


 何かを学ぶのは、なんの為か。人生を豊かにするためか。それもあると思う。自分を豊かにしても逡巡するばかりで、それは社会ではない。


 様々なことを学び、理解すれば、会話出来る人は増えると思う。それは豊かなことだ。


 言葉は日常的なものだけれど、そこに注力することは稀(まれ)だ。伝えたくても、伝えられないひとがいる。それを責めてもどうにもならない。伝えたい気持ちは痛いほどよくわかる。


 言葉にならないこと、言葉に出来ないこと、コミュニケーションは常に一方通行。その溝を埋めるのは、想像しかない。喪失は想像で事足りよう。欠落には創造しかない。責めるでなく、気づき、わかるなら補えばよい話ではないか。


 わたしは自分という人間を理解してもらうために言葉を書こうとは思わない。書く側が読む人に共感を求めてどうする。わたしは形が形として成立するように言葉を使いたい。



 人の世の苦楽を本にすることが出来たなら、それを読むことで、人の世もいくらか長閑になるかもしれない。豊かになるなら尚良いことだ。


 自分の考え方が、在り方が明確になればなるほどに、そこにひととの差違が生まれ、在るだけで否定し、責めているようで申し訳なく、そういうのは窮屈だ。

 それを優劣に当て嵌めて驕(おご)るのはみっともなく、惨めだ。


 海津にとって書くことは、対話に他ならない。何かしら面白ければ読んでもらえるかもしれない。2度読んでもらえるような、そんな本を書きたい。


 馬鹿が馬鹿なりに、あれこれと考え、情に棹されて、その思考が一巡をするころにある草枕。


 青い吐息を嗅いで、眠るとする。