改めて、
哲学は山、文学は川、詩は海。
これは、海津主観です。わたしはそこを転がっていく岩のイメージを連想する。
転がる岩は、エゴ=自我のようにも見えて、それは個というものの象徴なのかなと感じたりもする。
もう一つ、ひとを一滴の雫と捉えれば、それが川の一部となって、五木寛之さんの『大河の一滴』みたいに個を喪失した、或いはさせた、ひとを見出だしているのかもしれない。わたしはその著書を読んではいないけれども、題名からそんな推測がはたらく。
自分で例えておいて何だけれども、岩は循環するのだろうか。
岩が砕けて石となり、砂となり、海に堆積するままなのか、潮汐、プレートの動きにのって海溝に入り、マントルに触れて溶岩となって、地中を動き、押し上げられ、また岩となることは可能なのだろうか?
わたしは巡るという思想、輪廻という思想が好きだ。
輪廻とは端的に、思い煩(わずら)いながら、生死を繰り返す様をいう。
そして、そこから抜け出た境地を涅槃といい、そこに至ることが目標となるのだけれど、その想いを形すればするほどに欲深く、烏滸がましく、遠ざかるような気がしてならないから輪廻で海津はよい。
文学は川と海津は思うけれど、川はひとではない。
山があって川があり、川は海へと流れ込む。遠い風景を求めて山の頂きに臨むこともあろうし、その山路(やまみち)には雲雀も啼いている。
山の多くは一つでなく、連なって峰となり、違う頂きにあがれば、また違う景色もあるものだ。
言の葉の影に隠れて涼しみ、匂いを嗅いで憩う。
するとどうだ、膝に手をつき腰があがって足はまた動き出す。
想像をあそぶままに広げて、転がる岩と石、流るる水、気の向くままに歩くひと、ひと、その景色、それは同時に在り、その営みは流転する。難しく考えなくても、そこに調和が生まれている、というか在る。わたしはその様を飽きずに幾時間でも見ていられる。
刺激が足りないならば、そこに滝をつくり激しく起こる水しぶきを見るもよし、その音を聴くもよし、川の中を覗くもよし、氾濫してすべてを呑み込む濁流を前に踊る感情を、そこかしこに介在させればよい。
あをく芽吹く小さな生命があり、強い陽射しが深緑に焼き、赤や黄、橙(だいだい)と思い思いに色づき、やがて枯れ落ち、静かに白い雪に覆われて、その下にはまた新たな命が眠っているようで、息づいている。それまでは枯木(からき)に言の葉を吹き付けて遊び、春を待とうか。
山を臨めば川になり、いつの間にやら海に至る。はて、な。