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言葉で写真を撮ろうか

海津の手元には自分の写真がない。だから代わりに言葉で撮る。だって物書きだもの。



 ひとの文章を読む。形態は問わない。そこで、問いかけられるような、考えずにはいられないような時がある。

 その時、わたしは『個』というものを意識するとともに、『個』というものの意義を肯定的な意味合いで捉えることが出来る。

 アイドル、又は英雄はどの時代にも存在するけれど、そう呼ばれる『個』は、一過的なものが多く、社会の篩(ふるい)にかけられ、時間の磨耗に耐え、或いは磨かれ、時代時代の英雄の影に隠れないものが残る。そういうのを偉人と呼ぶのだろうか。


 それは、その『個』に普遍性というべきものが、いくつもいくつも備わっているからなのかもしれない。


 例えば、誰もが『個性』を主張しようとするとき、それは個性的に映るかといえば、それもまた違うと思う。

 一つとして同じ花のない花畑で、それを視野に収まるように眺めたとき、一つの花を個性的として見出だすことは可能であるだろうか。それよりは、小さくでも同じ花がまとまっているほうが目立つような気がする。


 しかしながら、花畑にあるそれぞれの花たちは周りを見て、そこに違いを認めて満足しているような気がする。


 表面的な違いはいくらでも出せるけれども、その本質が違わなければ、よほど近づかない限り違いはわからない。それが、距離感というものの正体ではないだろうか。


 現実的に考えて、ひとを、個人を深く知るためには多くの時間を要する。その時、他者との違いを主張するということは、そこに前例がない分、理解するのにより多くの時間を要すると思う。それは相手に対する敬意といえるだろうか。


 ここで話を戻す。


 わたしが問いかけられるような、考えたくなるような文章とは、振り返れば、その文章の中に様々なものが内包されていることが多い。


 たぶんこんなこと、あんなことを考えたろうなというのがあって、それを踏まえて言葉を選んで書いているのではなかろうか。この考えを導きだすにはどれくらいの時間を要したろうと敬意を抱く。


 「考える」ということを肯定的に捉えて、その時の意義は何かといえば、わたしはあなたに会う前にあなたを知りたい、知り始めたい、ということになるかもしれない。


 わたしはここに、時間を超える可能性を感じるのです。ちょっと飛石を踏みますよ。もし、もしわたしが自分なりに感触を得たもの、納得のいくものを書けたとする。その時、例えば自分の中に一定の地位を占める作家、或いは作品と対話出来たような気になると思う。寧ろ、それ以外に対話する方法はないとすら思っている。


 歴史を読み解いて、或いは古い本に新鮮さや共感を覚えたとする。それは故(ふる)き良き時代に現実逃避する為ではなくて、そこに価値を見出だして、前に進むためであったりする。それは「歴史は繰り返す」という言葉を知っても知らなくても内包しているからだ。

 その瞬間に、過去は現在を介して未来へと紡がれたわけだ。その糸は生糸のように細く、編めばしなやかで柔らかい絹になる。文章はよく、紡ぐだとか、編むと形容されるのはその為ではなかろうか。


 生糸というのは蚕(かいこ)の繭(まゆ)を 熱湯で煮ると、紡げるようになる。生き物から紡ぐから生糸って言うのだろう。

 感情は生きていることの証とわたしは思うから、やはり文章は生糸が適当に思う。日本語というのは、語感が様々で、もの凄く細かい。

 わたしはよく知らないけれど、古い日本の言葉は、感性に富んでいて、綺麗だなと思う。語源について考えることは、その感性に触れているような気がして嬉しい。



 言葉を文字に表すことは表面的なものであるが、意味というのは内側に深く広がっていく。


 たぶん、感情を伴うというのはとても大事なことで、例えば、「おはようございます」と表面的に丁寧で、適当に言われるよりも、「はよーす」と言葉は適当でも敬意や親しみを込めて言われるほうがずっと気持ちがいいし、嬉しい。大事なのは、形そのものではなく、形にしたい何かだと思う。

 ただ、あくまでこれは一つの前提であって、もう一歩先に進めるとするならば、形にしたいものに適当な形、つまり伝わるという結果を伴う形が大事なのかもしれない。


 余談だけれど、この感覚はよく、ある種の短絡的な商業主義で語られたりする。商業主義が利益幅が多く、たくさん売れるものを絶対的な評価と捉えられがちだけれど、採算が取れて一定の利益さえとれればいいいわけで、つまるところ、全員に理解されることが絶対ではないと思うんだな。対象が明確であることは必要だと思うけれど。



 例えば、ピカソをすごいと思うひとはたくさんいるが、ピカソの絵画を観たいと思うひとはそれよりも少ないと思うし、実際に観に行くひとはさらに少ない。そして素直にすごいと思うひとはもっともっと少ない。


 この最後の部分には注をつける必要がある。ピカソを理解したということではなくて、その絵画を前にして何らかの感触だとか、イメージを持てたという意味。


 そして、その感触やイメージがその作品、そして画家に親しみを覚えさせるのだと思う。




 冒頭に書いた読むことで生じる不可避的な疑問は、同時に世の中って広いなあ、すごいなあという感銘を生むとともに、そのひとについても興味が湧く。これはとても不思議なことだ。


 何故ならわたしは作家や、アーティスト、それに準ずる人、その人自身についてほとんど興味が湧かないからで、それは作品以外に存在意義を見出だそうと思わないからだ。


 そこでしばらく考えてみた結論というのは、プロやプロを目指すひとは『人』なのだということ。


 彼らは『ひと』を書くけれども、『ひと』ではない。文章を読んでいてその『ひと』に興味が湧くのは、それは『ひと』がその『ひと』ついて書いているからだ。


 たぶん、ここに一つの境目があるのでしょうね。




という話。