前回に引き続き書いていきたいと思います。
国家が戦争を決断するとき、そこに明確な目的があることは間違いなく、その目的とは例えば石油の利権、独立、軍事施設の破壊、既得権益、領土の拡大、治安の維持、国際的地位の向上等々、様々にあるわけで、国益を確保して戦争を終結させることにあると思う。
中国の三國志、日本で一般的に知られているのは羅貫中が著したとされる、三國志演義という本で、魏・呉・蜀の三國のうち、蜀の劉備玄徳が徳をもった政治で民衆の支持を得て、その物語の壮大さと、魅力的な登場人物が読者にも支持されている。
そこに書かれた劉備の蜀という国が造られるまで、そしてその後の戦争というのは、民の平和だとか、豊かさの為であることから戦争も民衆に肯定されて書かれている。
当時には原爆も戦闘機も銃もない。あるのは剣、戟(ほこ)、弓の他に、弩(ど)呼ばれるボーガンや、投石、落石、火攻めにする油壺、川に毒を流す、よくあるのが兵糧攻めで単純に餓死させる。
それらの写真は残っていないけれど、残忍さという点では、大して違いはないように思う。
三國志に限らず、歴史小説の多くには戦争について克明に書かれているが、そこからくる戦争のイメージと、実際の戦争のイメージには大きな開きがあるように思うのです。
その違いを生み出すのは大義名分の有無なのでしょうか。
もう一つ、現実的に戦争が起こったとして、もしミサイルが飛ぶなら、中国からなら一時間以内に日本に命中する。もしそれが核弾頭なら、それが水素爆弾なら、二発で日本は壊滅するという人もいる。
この時、侵略ではない自衛の戦争をどう行うのかがわからない。
第二次大戦の時は空母が来て、戦艦が来て、各地の海戦で日本の征空海権を取られてから、軍事施設が破壊され、東京を初めとする大都市を絨毯爆撃され、原爆を二つ落とされて無条件降伏した。ここまでで戦争を始めてから4年近い月日が経っている。
この時の兵器の最大射程距離というのは、戦艦の主砲で60キロぐらい。今だとミサイルで数千~万キロ。地上施設もあると思うけれど、潜水艦で普段深海にいながら、発射時に浮上してミサイルを射つ。
命令を受けてから、1~2時間で勝敗の大勢(たいせい)が決まってしまう。反撃する武力を奪ってから占領行為を開始するわけで、領空・領海や国内での攻防は反抗であって、反撃ではないと思う。
ということは、自衛する為には相手の国を攻めなければいけないということになる。その時国民はそれが侵略であるか、自衛であるかの線引きはどうすればよいのだろう。
そもそも、日本の現行の法律だと手続きが多すぎて反撃とか考える前に敗北してそうです。東北の震災の時、何故現地に民間のヘリが自衛隊ヘリより早く到着して中継している意味がわからない。アメリカならヘリを飛ばしつつ、軍事衛星とかで写真撮っているでしょう。
海津の主観では国家の役割はまず生存権 が保証されるべき。そこに必要なのはインフラであったり、制度であったり、有事に対する対応力であると思う。有事が起こってから議論が始まるのはどうなんだろう?なぜそんなに遅いのか理解出来ない。
有事に対する対応力というのは、有事の定義を明確に、そしてイメージを具体的に持つことで、その具体性はそれを誘引する要因の仮説の信憑性を増すわけで、そこから情報の取捨選択の物差しが出来ると思うのです。
そうしたものの体系化がなされてから、イレギュラーに目を向けることが出来て、そこで生まれる感情にもアプローチ出来ると思うんだわたしは。
わたしが思うに、日本の国民感情では戦争を望んでいないと思うし、侵略する感覚もその必要性もない。それはたぶん豊かで平和ということだ。
けれども、対外的にどう映っているかというところについて、無自覚というかわかりにくい。
例えば、アパートやマンション、一軒家に住んでいるとして不在に拘わらず鍵をかけます。マンションに住んでいるならオートロックも求めるし、管理人、或いは警備員を望む。自分の住まいの近所に暴力団がいたり、カルト教団があると不安になる。出ていって欲しい。危険な所には近づかない。
これは日本での話。けれど、他人を本当に信用しているならセキュリティってそんな要らないと思う。向こう三軒隣を信用していないのに、何故外国を信用できるかわからない。
わたしが北海道に住んでいた頃、外出するとき以外は家に鍵が掛かっていなかった。
今だと、家にいるときは施錠しますけど、外出の時には楽観的なもんですから鍵をかけ忘れるというかそこに頓着がない。盗られるものもないし、わたしはいないですから。
たぶん、都会と田舎の感覚は違うから、都会に住む人は一般的に施錠すると思いますよ。
セキュリティというのは、自衛の観点だと思うし、地域のセキュリティ、治安の維持は警察でしょう?たぶん、日本における自衛隊は軍というよりその意味合いが強いような気がするんです。
で、国対国における自衛の場合、ミサイルがあるから、感情を抜きにして物理的に考えれば、相手の国を先に攻める必要が生まれたり、ミサイルを確実に落とす兵器が必要であったり、そこまでいかなくても、牽制する戦闘機やイージス艦なんかは必要な気もする。その兵力は仮想敵国によるわけで、一般的に攻めるよりも守るほうが難しい言われているけれども、一体どれくらい必要なものなのだろう。
深く考えなくても、領海内で体当たりしてくるような国がまともとは思えない。それが侵略的な思想なのか、羨望からくるものなのかわからないし、日本がこういう国だから、しても構わないと思われているのかしらん。ただわたしは信用は出来ない。
そこは置いておいて、わたしが単純に戦争を阻止を目的とするなら、主権が国民に在るということを根拠にして、戦争における軍人と民間人の境界をなくす。
それなら、戦争下において巻き添えはおろか、空襲されても文句はいえないから、戦争の反対デモは物凄いことになって国会議事堂前に100万人規模で押し寄せたりするんじゃないかな。それで戦争は阻止できる気がする。
わたしのスタンスを明らかにするなら、漠然と戦争の肯否はなくて、不当な侵略やそれに準ずる状況下における自衛の戦争を肯定する。それは戦争の要因が自分の、或いは国民の生活に関係するときで、著しく損なわれる場合も含む。
ただ、卑しさともいえるけれど、戦地に赴いて兵隊として殺したり死ぬのは嫌だな。在り方をそこに置きたくない。一民間人として死にたい。個を喪失したくないですし、理由如何によっては国を棄てる選択もあったりする。他国が人でなしの国ではないでしょうから。
ここでしばらく考えた。戦争を肯定しておきながら、自分はひとを殺したくないわけで、自分のしたくないことをひとにさせるというのはどういうことだろう?
参ったなぁ。いや、参った。兵隊だからと割り切れるものではない。どのみち訓練していないから役に立たないだろうけれど、そうまでして自分の主張を通さねばならないものなのか、ある種の狂気を纏っているからこそ可能なのか。
入ってくるものを排除するというのは正当防衛として成立すると感情的に思うのですが、相手国に攻め入って自衛というのは中々受け入れ難い。戦力の実行という意味では、やはりセキュリティというものの範囲内に留めるべきに思う。
尖閣諸島、竹島問題が強行手段によるものであったり、拉致問題が世間の目から離れて、なんだかうやむやな感があるのは、日本の国際的な地位の低下によるとわたしは思うのです。アメリカもそんな気がする。
一時期は日本が常任理事国に入るかもしれなかったことを考えると、国内総生産が中国に抜かれ、国力を周辺国が増してきた現在では状況は同じとはたぶんいえない。
国際的地位が低くなれば、圧力をかけられやすくもなり、また屈しやすくもなる。その表れが尖閣諸島なんかの問題に結びついている気がする。顔色を窺いながらじわりじわりと侵食されてくるような感覚がある。
現在でも、日本は戦力でいうと核兵器はないものの、世界で有数の国家で、装備の質も違うわけです。けれども、憲法の規制があるから、ほとんど使えないと聞く。それは侵略以前に自衛としても。
わたしの個人的な感覚でいいますと、日本の自衛隊というより、それを管理する日本人の気質として侵略というイメージが湧かないんです。
過激な事を言う連中もいますけれど、それが共感を呼ぶとは思えない。
ですから、軸はそのままにしつつもきちんと働けるように改憲なり、新たに憲法はつくるべきに思う。
何故なら、自衛隊、或いは他国で言うところの軍隊を全体のバランスを考えて使える国は、日本であるとわたしは思うから。
感情的にあの憲法を読むと、たぶん良い印象にしか映らないと思うけれど、解釈に幅があったり、矛盾があることで現実的な歪みが生まれるてくると思う。
例えば、新憲法草案を各党で作り、現行の憲法を含めて新聞に掲載して、何年かの時間をかけて国民を巻き込んだ検証を試みて、国民投票にかけるのは駄目なのだろうか?
日本国憲法の序文に日本人と日本国の在るべき姿が述べられているけれども、マニフェストより顕著に党の在り方が見えると思うんです。わたしは憲法をつくれない党ってあんまり信用ならない。何故なら、客観的に物事をみることが出来ないと思うから。それに国会というのは唯一の立法機関であるのに、法律の根幹である憲法を理解していないのはおかしいと思うんです。違いますか?
これまでを踏まえて『戦争』のみを取り出して考えると、わたしはもやもやもやもやとして、何だかよくわからないのです。たぶん、日本人の中では戦争というと、『第二次世界大戦』の記憶が大部分を占めていると思うのです。
それはメタメタにやられたからだと思います。ここについて一言でいえば、日本が東京大空襲のような空爆と、原爆を落とさなくて心から良かったと思う。
もしそういう事実があって、わたしが今の価値観であるなら、たぶん一生恥に感じていると思う。負の遺産以外のナニモノでもない。
その負の遺産について、今を生きるアメリカ人が日本人に対して負い目を持つ必要はないと思うんです。生まれる前の過去の出来事ですから。その責任を取れというのは筋が違う。国家は取るべきとも思うけれど。ただ、その事実を評価するなら、それは頭がどうかしている。
日本が行ったとされる南京大虐殺ついて、石原都知事は石川達三他の二名の話をもとに、大虐殺と呼ぶべきはものはなかったと言っている。物理的に無理という意味で。殺害自体はあったろうとは言っている。氏曰く、両国で調査団を結成して真偽を確かめようという申し入れは断られたそうです。
石川達三さんという方は、文学でしか知らないけれど、文章は優れたものを書いているとわたしは思うので、石原都知事と合わせてくだらない嘘はつかないと思ってはいるけれど、根拠となり得るかどうか。
もう一つ従軍慰安婦については、今の価値観だとたぶん理解されないでしょうし、犯罪になるかと思うのですが、当時はそういうものもなくて、また、強制連行ではなく、報酬がきちんと払われていて、当時では収入源の一つという背景があったと聞く。
慰安婦となった女性の親が女性を説得するために、強制連行であるということを言ったというのは聞いたけれど、それはどちらかと言えば身売りという話であってちょっと違う気もする。ただ奥さんがいる人がそういう関係を持つというのは疑問ですけれど。
この2つについては、国家の細かい検証に基づいてその信憑性に威信をかけて言及したらよいと思う。結果がどうであれ、わたしはそれを事実として追認します。謝るべきものなら、謝るべき話で、それが道徳ではないですか。
続きます