利休の恋 | 千利休ファン倶楽部

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千利休の哲学や思想、
考案した茶の点前に関する
様々な事柄を記事にしていきます。

茶聖、と言うよりもむしろ、
人間、千利休に焦点をあてていきます

映画「利休にたずねよ」は
おそろしく簡単にまとめると、
朝鮮の姫に利休が恋をする、
と言う話でした。

ただ、普通の恋愛物語では
面白味が半減してしまいますので、
その恋愛を悲恋にしてありました。

朝鮮の姫の死により、
「美しい物」への執着を
より一層強くした利休は、
いよいよその美的センスを
強烈に開花させていき、
自然とそれが多くの人に
知れ渡るようになり、
ついには織田信長に重用されました。



と言うのが映画の設定のようですが、
現実は大きく異なります。

「利休にたずねよ」はあくまでも
文学小説であり、フィクションの要素が
実に9割以上。

と言うのも、利休の青年期と言うのは
その頃の資料が全く残っておらず、
はっきり言うと
「殆ど何もわかっていない」
と言うのが学術的な現状なのです。

要はこの作品(小説・映画ともに)は
謎とされている利休の青年期に焦点を当て、
「こんな恋愛をしただろう」
と言う話を作りあげたのが
おおよそ正しいところだと思います。

残念ながら原作者の山本兼一さんは
今年の2月にお亡くなりになったので
正確なところをお聞きする事は出来ませんが、
ほぼ間違い無くそうだろう、と思います。



韓国の姫、と言う強烈な美に
心の全てを奪われてしまった利休は、
彼女を失ってからと言うもの
その美を、茶道具に見出すようになる。

茶道具の中に徹底した美しさを
求め続ける事で、
彼女に対する恋心の
はけ口としていたと言う
設定だったのでしょう。

それが故に、利休の美は
他の追随を許さなかった、と。



しかし、これはあくまでも
フィクションに過ぎず、
現実とは相当乖離しています。

と言うのも、
「利休賜死」のシリーズで書いた通り
利休の美の裏には、何よりも
死生観が多分にうごめいていたからです。

利休の美的センスは
恋愛とは全く関係無いところで
既に十分備わっていたようです。



中でも、利休が師、武野紹鴎に
弟子入りするときのエピソードが象徴的です。

紹鷗が綺麗に掃き清められた庭に
利休を立たせ、
「ここを綺麗にせよ」
と言いました。

すると利休はおもむろに落葉を
手にすくい、何を思ったのか
飛石などの上にばらまきました。

ほどほど撒きおわると、利休はこう言いました。

「お師匠様、これで綺麗になりました。」

紹鷗はその姿を見て利休のセンスを見抜き、
喜んで弟子として迎え入れたそうです。



これは利休17歳当時のエピソードです。

若干17歳にしてこれほどのセンスを
既に持ち得ていたのですから、
「利休にたずねよ」にあった
朝鮮の姫との悲恋など無くとも
十分に美を完成させた
可能性が高いのです。



そして「利休にたずねよ」で
完全に欠け落ちていた部分がありました。

それは、「侘び」の美学です。

たぶん原作者の山本兼一さんも
監督だった田中光敏さんも
「侘び」の哲学にはどうしても
たどり着けなかったのだと思います。

映画の中で表現された美は
「侘び」と言うよりも、
比較的「雅」に近いものが多かったと思います。

そう言う意味で、
利休を知る映画、と言う立ち位置で考えるならば
「本覚坊遺文 千利休」
の方が、はるかに利休のそれに近い気がします。



雅な美は、それはそれで
素晴らしく印象的ではありますが、
映像が頭にこびりつくだけで
後からジワジワと来る物がありません。

侘びの美の良さと言うのは、
後から後からジワジワと迫ってくるのです。

それも、歳を取ればとるほど、
そのジワジワはより大きくなっていく。

どうも映画の中でその
「ジワジワ」
を表現するのは難しいようですね。



いずれにせよ、
「利休にたずねよ」
と言う作品は、
美術作品としては良く出来ていますが
「利休の美学」としては
残念ながら良い出来だとは言えません。

好きな映画なので
DVDも購入しようとは思っているので、
この批判で変な誤解が生まれませんよう(笑)