ですから、事実として利休が作った
さまざまなデザインは、
現在もユニバーサルデザインの基礎となり
引き継がれています。
日本料理に出てくる様々な食器は
その大半が利休によるデザインです。
お椀、箸、小吸、盃、半円盆・・・
これらの形は利休がデザインして以降、
ほとんど形を変えることなく
現代でも作られ続けています。

ところで、昨年末話題になった映画、
「利休にたずねよ」
についてですが、この作品では
様々な有名道具の「本物」が使われました。
私のような茶人であれば、
まさしく垂涎物の作品だったと言えます。
しかしながら、その品揃えは
少々オタクが過ぎたような気がします。
そして、利休の本質的価値を
少々損ねてしまった印象すら感じました。
原作も無論目を通しているのですが、
全体的に「美しい」物に対して
利休がいかに妥協しなかったのか
と言う部分のみがクローズアップされ、
「何故妥協しなかったのか」
と言う肝心の部分が
まったく語られていないのです。
ストーリー自体は非常によく
出来ていたと思います。
例えば朝鮮の姫がさらわれてきた、
と言う部分について批判が集まりましたが、
利休の性格や哲学、思想を理解する
立場からすると、時代背景的に
朝鮮の姫でなくては話が成立しなかったのです。
「なんで?」
と思われる方も多いかと思いますので、
今回は少々そのお話を。
まず当時の時代背景を振り返っておきましょう。
日本は南蛮交易をすすめる横で
明(中国)とは仲が良くなく、
その仲裁には常に、
日本と交易していた明の属国、
朝鮮がありました。
つまり「利休にたずねよ」において
作者の山本兼一氏はきっと
「利休ほどの人物ならば、
本気で恋をするなら、
南蛮の金髪の姫か
どこぞ別の国から来た
姫でなくてはならない筈だ。」
無論、話を面白くする意味でも、
同じ利休が恋をするならば、
誰も恋をしたことがない相手でなくては
面白味がありません。

では、南蛮の女性ではいけなかったのか?
と言う部分ですが、
まず設定上の問題があります。
つまり、
「逃避行じゃないと面白くない」
と言う部分ですね。
逃避行と言う事は、
普通の恋では表現がダラダラしてしまうので
思い切って、さらわれてきた姫に恋をする、
ぐらいにした方が余程盛り上がる。
とは言え、南蛮の姫がさらわれてくる???
はずが無いですよね。
そもそも南蛮相手では、さらってくるには
あまりにも距離が遠すぎます。
しかも、南蛮の姫と言うことは
ほぼ確実に、金髪の美女。
そんな「あからさまな美」に
「侘茶人」利休が反応するでしょうか?
するはずがありませんね。
と言うことは、自動的に
「さらわれてくる姫」
の出身地はアジア圏内に絞られます。
当時織田政権と豊臣政権が交易していた
アジアの国は、おおよそ
フィリピンか朝鮮か、ぐらいのものでした。
明とは交易を持っておりませんでした。
しかも、フィリピンの人は色黒なので
土人と言う呼び方をされていた節もある。
そもそも文化的にも美を感じるほどの
発展の仕方をしていなかったのは
確実です。
と言った時点で既に、
もう朝鮮ぐらいしか選択肢が無いのです。
だから、朝鮮の姫でなくては
話が成立しなかったのでは無いでしょうか。
と言ったところで、
続きはまた次回。