勝手ながら数日ブログを
休載させて頂きました。
さて、一休宗純の得た禅の悟りこそ、
利休の哲学や思想に
最も大きな影響を与えることに
なるものだったのでは無いでしょうか。
以前も書きましたが、
利休の師、武野紹鴎は十四屋宗陳・宗吾兄弟の弟子。
十四屋宗陳・宗吾兄弟と言えば、村田珠光の弟子。
村田珠光と言えば、一休宗純の弟子。
つまり利休は一休にとって、
玄孫弟子にあたるのです。
そして一休の弟子こと村田珠光こそ
侘茶の開祖だったのです。

村田珠光は応仁の乱や
何度となく繰り返された土一揆によって
ボロボロになった京の街において
割れたり欠けたりした茶道具を見つけ、
そういった道具にも味わいがある事に
気付いたのだと思います。
だからこそ、「完全」なものではなく
「不完全」なものに美を見出すことが出来た。
その「不完全」だから美しいと言うセンスは
一休宗純の影響を強く受けているのです。
一休の教えは、私なりに簡単にまとめると
「ありのままの人でいなさい」
と言うことです。
誰もが人に会うとき、会話をするとき、
思わず格好を付けてしまうものです。
話し方、姿勢、服装、髪型・・・
そう言った物を乗り越えると
そこには、「ありのままの自分」がいる。
そういった一休の教えを
茶の世界で表現しようと試みた村田珠光。
彼の「侘茶」の思想は
100年の時を超えて
千利休により、完成されました。

利休は、それまで全世界で共通していた
上記写真のタージマハルのような
「左右対称」の美を敢えて崩し、
「左右非対称」の美を生み出したのです。
例えば神社仏閣は、その全てが
左右対称に作られています。
フラワーアレンジメントにしても
左右対称になるよう構成されています。
しかし、利休はこう言いました。
「花は野にあるように」

利休が唱えた「侘びの美」の
究極の部分は、この一言にこそ
隠されているのでは無いでしょうか。
実際、私たち日本人の多くは
完璧な左右対称美も好きですが、
それ以上に左右非対称のものに
思わず惹かれてしまいます。
また、花と言うものは
単に左右非対称にするだけでなく
軽く霧吹きをかけ、葉を湿らせることで
それが徐々に乾いていく姿から
時間の経過をも知らせてくれます。
過ぎゆく時間によって
刻々と変化する花の表情は
私たち日本人の心を鷲掴みにします。
その延長線上には、
例えば皮革製品やジーンズの
経年劣化を楽しむと言う考え方があります。
少し使い古された感じのする
南フランス風の建物だとか
ペンキの剥げた柵だとか。。。

こういった、「時間」を感じさせる美もまた
利休の「侘び」の美を抜きに
語る事は出来ません。
と言ったところで、
続きはまた次回。