現在とは大きく異なる物でした。
どういった物であったかと言うと、
まず「死」はそこら中に転がっていたのです。
とは言ってもピンと来ないでしょうから、
敢えてその当時の時代を総称する
名称を今一度確認したいと思います。
「戦国時代」

安土桃山時代を含んだこの戦国の世は、
日本国中あちらこちらで戦争が起こっていました。
戦いで死ぬのは武士が中心でしたが
ひとたび飢饉がおとずれると、
農民も例外ではありませんでした。
常にいつ訪れるか解らない死と
常に向き合いながら、
そしてそれを恐れながらも
日々を暮らしていたのが
当時の日本人だったのです。
利休の弟子は、
私の手元資料にあるだけで28名。
ただこれは、どうも秀吉時代のデータらしく
利休が織田信長に仕えていた時代の
弟子については、あまりはっきりしていません。
とは言え、利休が「死」の哲学を
好みの「黒」に込めたのであれば、
少なくとも信長の時代にそこそこの数の
弟子を戦争などで失っていることでしょう。
利休の弟子でなくとも、
利休と親交のあったであろう大名も
多くが命を失っているのだと考えるのは
至極自然なことだと思います。
そういった死が常にまとわりつく世にあって
彼らの「死」に対する覚悟と言うのは
いかばかりだったでしょうか。
こう言う時の例えとしては
相応しくないのかもしれませんが、
大東亜戦争当時の日本人の死生観を
思い起こし、比較してみたいと思います。
当時、戦時中の日本に於ける
多くの日本人は、
常に徴兵に対する覚悟を持っておりました。
徴兵されたら、二度と生きて帰ってこられない・・・
だから、精一杯生き抜く。
死ぬときも「死ぬ」とは言わず、「散る」と言う。
それほどまでに、戦時中の日本人は
死に対して強い誇りを抱き、
なおかつ強烈な覚悟を秘めていたのです。
その死に対する覚悟のほどは
特攻隊の方々が書かれた遺書などを
お読み頂ければ、よくわかると思います。

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父上様、母上様
私もいよいよ神風特攻隊の一員として
出撃することになりました。
目を閉じれば二十余年の思い出が
懐かしく浮かび、そして流れていきます。
父上母上の大きなご慈愛に抱かれた私は
何と幸福だった事でしょう。
そのご慈愛に何もお応えすることが出来ずに
行くことをなにとぞお許し下さい。
しかし、この未曾有の困難に直面して
断固行くのが日の本の男子です。
一度行く以上は見事敵艦に体当たり、
これを轟沈せしめずにはおきません。
紺碧の南の海、空、そして気も心も日本晴れ。
私の真っ赤な血潮がたぎって流れるところ、
にっこり笑って突っ込む私の姿を
思い浮かべて下さい。
ただただ七生報国を願うのみです。
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読み違いがありましたら失礼。
閑話休題、これほどまでに強烈な
死に対する覚悟が、少なくとも
戦時中の人々にはあったのです。
では、同じ覚悟があったとして、
それは戦国時代の人々にどれだけ強い影響を
与えていたことでしょうか。
利休は仲の良かった武将、
交流のあった武将、
自分の弟子、
親交篤かった武将など
多くの友人を失っています。
彼らが成仏できているのかどうかすら
知る事は出来なかったことでしょう。
そして、そういった社会的地位にいた利休自身も
常に死に対する覚悟はあったのだと考えると
ただでも侘茶に傾倒している利休なのですから
同じ花を咲かせるならば、
今まで誰も見たことが無い
花を咲かせようと考えたことでしょう。
「死」と言う名の花を。
そして行き着いた悟りこそ
「人は必ず死ぬ」
と言う普遍的な事実でした。
そこで登場するのが、
前々回ご紹介した、一休宗純。
一休宗純の得た悟りこそ、
そして彼の生み出した法脈こそ、
利休の哲学や思想に
最も大きな影響を与えることになります。
と、今回はここまで。
続きはまた次回。