飽くまでも筆者の想像であり、仮説です。
事実ではない可能性も多分に御座いますので、
この記事が真実だとは決して信じ込まないで下さい。
①利休の弟子にはキリシタン大名が多かった
②利休は明らかにキリシタンの影響を
点前作法で表現している
③秀吉はキリシタンの棄教令を出した
④利休の死後、秀吉は
わずか1年で朝鮮征伐に動いた
⑤宗二の死後、1年弱で利休も賜死されている
⑥民間人の切腹だったと言う異例さ
⑦罪状が全く記録されていないと言う異例さ
⑧秀吉の朝鮮出兵計画は、スペインに対する
戦略的パフォーマンスだった
これら8つのポイントにもとづいて、
私なりにストーリーを考えてみました。
「70歳にもなって、愛弟子を失ってしまい
自分の死期を悟り始めた利休。
利休は民間人だが、
トップクラスの政治家でもあり
豊臣政権の内部調整役、
すなわち官房長官でもあったため、
朝鮮征伐の重要性は理解していた。
だが秀吉にとって、
キリシタン大名達の助力が無くては、
朝鮮征伐など夢のまた夢。
キリシタン大名達が
スペインに対する戦略的パフォーマンスである
朝鮮征伐に、良い顔をするはずが無い。
しかも利休自身もキリシタン信仰に
かなり好意的だったので、彼もまた
朝鮮征伐については、非常に躊躇していた。
だが、多くのキリシタン大名を
弟子に持つ利休はその立場上、
彼らキリシタン大名を朝鮮征伐に
あたるよう説得しなくてはいけない。
とは言え、やはりキリシタンに対する
好意を否定できない為、
彼らを説得する勇気や自信が無かった。
そこで老い先短い利休が考えたのが、
自分が死ぬ事で彼らキリシタン大名に
事の重大さを納得させることだった。
きっとこの様な罪を
自らに着せたのではないだろうか。
『儂は猿の伴天連追放にそもそも反対で
キリシタン信仰も捨てておらず
朝鮮征伐などキリシタンの教えに
真っ向から背くもの故に
儂も猿に刃向かってやろうぞ』
このような事を言ったら
当然利休は死罪である。
しかしながら秀吉にとって利休は
何よりも大切な師なので
利休の命を何とか救おうと考えはするものの
利休は頑として聞き入れない。
そこで秀吉を納得させるために
利休が取った行動は
朝鮮征伐に対する猛烈な反発だった。
無論秀吉もそれが、
利休のパフォーマンスだとは
わかってはいたものの、
太閤、そして日の本の国の総領と言う
立場上、利休のその行為を
見逃すことは出来なかった。
そして秀吉は利休に一旦堺の自宅に
蟄居するよう命令を下す。
そうすることで、
何も知らないキリシタン大名達に
利休に何かとんでもない事態が
起きている事に気付かせた。
無論、秀吉の元に利休の助命嘆願が
あらゆる大名から飛んでくるのは
当然だった。
キリシタン大名達も一度はそれで
朝鮮征伐を渋々受け入れる気にはなった。
だが、天才政治家・利休は
その「渋々」を理解していたので
彼らを本気で動かすにはやはり
自分が死ぬしかない、と言う事を
解っていた。
それが故に、利休の元に
『殿下(秀吉)に頭を下げれば
助命が叶います』
と言う連絡も多く届いているにも関わらず
利休はそれらを全てはね除けた。
秀吉自身も、利休を殺したいなど
夢にも思っていなかっただろう。
だから、名目上の賜死の理由は
『朝鮮征伐への猛烈な反発とキリシタン信仰』
だが、その理由を敢えて伏せた。
伏せることで、利休の名誉を
守ろうと考えたのだろう。
また、その名誉を出来るだけ
高い位置に置いておきたかったが故に、
民間人であるにも関わらず、
切腹を申しつけた。
だが、それがもとで
『残酷な太閤』と言う噂が
町人の間に広まるのを防ぐために、
敢えて介錯した首を一条戻橋に晒し、
利休の罪状を適当に並べ立てた。
ちなみにその首が本当に
利休の物だったかどうかは
明確に証明できる材料が残っていない。」
以上、かなり長くなりましたが、
私の考える利休賜死の原因でした。

国のために飽えて罪を被り
悪人として死んでいく人も
この時代には少なくなかったと思います。
利休は民間人から一気に豊臣政権の
ナンバー2にまで成り上がった
天才政治家でもありました。
そんな彼だっただけに、
自らの命を掛けて
多くの大名達を動かし
スペインの日本侵攻を
未然に食い止めようと試みたのでは無いでしょうか。
そしてその死は功を奏したのか、
スペインの日本侵略は
その後、現在に至るまで実現していません。
およそ7日間にわたり
利休賜死の原因を私なりに予測してみましたが
いかがでしたでしょうか。
利休と言う人物は私が想像する限り、
本当に豪毅な男性だったのだと思います。
美の人と言うだけでは無いのだけは確実。
みなさんにとっての利休は
どんな人物でしょうか。