そして利休は死を賜わる | 千利休ファン倶楽部

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千利休の哲学や思想、
考案した茶の点前に関する
様々な事柄を記事にしていきます。

茶聖、と言うよりもむしろ、
人間、千利休に焦点をあてていきます

宗二の死後、キリシタン大名達を庇護していた利休は
秀吉にキバを剥き始めたのでしょう。

それも、棄教した大名に
キリシタン信仰を取り戻すよう働きかけたのではないか。

そうすることで、
伴天連との交易を
何とか復活させたかったのではないでしょうか。

と言うのも、伴天連との交易によって
キリシタン信仰もまた、日本に広めるべきだと
考えていた可能性があります。

無論、それは秀吉に対する当てつけと言う
可能性も十分に考えられます。



が、いずれにせよ利休は一旦堺の自宅に蟄居させられ、
その後、聚楽第の利休屋敷に戻された上で
切腹を言い渡されます。



そこでポイントになるのが、「切腹」だったこと。

考えても見て下さい、利休は武士ではないのに、
賜死は賜死でも切腹なのです。

切腹は武士の名誉だけに
民間人である利休に切腹を申し渡すのは
異例中の異例。

民間人で「切腹を下賜」された記録があるのは
私の知る限り利休のみなのです。

それだけ秀吉にとって、
千利休とは特別な存在だったのでしょう。



そしてもう一つポイントになるのが
利休賜死の直接的要因が明確でないこと。

通常ならば罪状が明確に記録されるものですが、
利休に関しては何故かその記録が
どこにも残されていないのです。

民間人の切腹と言う異例中の異例にも関わらず。



ここまで来ると、利休の切腹が
かなりの異常事態だと言う事が
誰にでも想像出来ると思います。

何か余程特別の事情があったのでは、
と勘ぐってしまうのは誰でも同じ事でしょう。



これまで色々と書いてきたポイントを
改めて見直します。

①利休の弟子にはキリシタン大名が多かった

②利休は明らかにキリシタンの影響を
 点前作法で表現している

③秀吉はキリシタンの棄教令を出した

④利休の死後、秀吉は
 わずか1年で朝鮮征伐に動いた

⑤宗二の死後、1年弱で利休も賜死されている

⑥民間人の切腹だったと言う異例さ

⑦罪状が全く記録されていないと言う異例さ

⑧秀吉の朝鮮出兵計画は、スペインに対する
 戦略的パフォーマンスだった

これら8つのポイントをまとめて全体を見直すと、
自然と次のようなストーリーが見えてきます。

と言ったところで続きは次回。
このシリーズの最終回です。