利休賜死の政治的背景 | 千利休ファン倶楽部

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千利休の哲学や思想、
考案した茶の点前に関する
様々な事柄を記事にしていきます。

茶聖、と言うよりもむしろ、
人間、千利休に焦点をあてていきます

利休が実はキリシタンだったのでは?
と思えるぐらい、キリシタンの影響を受けていたのは
これまでの記事でお解り頂けたと思います。

そのため、1587年7月の伴天連追放以降に
秀吉によって出された、
キリシタン棄教令にもめげない
キリシタン大名達を、
利休は庇護し続けていたことでしょう。

ただ、みなさんご存じの通り
キリスト教と言うのは排他性の強い宗教ですので
キリシタンの弾圧が始まると、
島原の乱ではありませんが、当然のことながら
大名達も秀吉に対して
キバをむき出しにしたことでしょう。

それをさせないように動いていたのもまた、
千利休その人だったのではないでしょうか。



少なくとも秀吉にとって、北条制圧までは
日本国中の大名をまとめる必要があったので
利休のそう言った動きが非常に大切だった。

しかし、北条を制圧してしまい
秀吉に反抗出来る大名は、
これ以上いないのだと言う事を証明出来た以上、
キリシタン大名達も棄教に従わざるを
得なかったのでしょうね。

そしてそれと同時に、
秀吉にとって目の上のたんこぶだった利休は
利用価値がなくなってしまい、
ただの邪魔者になります。

しかも秀吉は、利休の愛弟子である
山上宗二に死罪を申し渡しており、
利休はそれに対する心からの怒りを持っていた。

そんな利休の立場で考えると、
秀吉に対する密かな反抗を
最も象徴的に行えるのが、
朝鮮征伐に反対することでした。


政治的な立場上、
朝鮮征伐がスペイン牽制の
必要な条件だったことぐらいは
利休にもわかっていた筈です。

それでも利休は、朝鮮征伐に反対した。

つまり、スペインを牽制するな、と
あからさまなことを言い出したのでしょうね。

そして、裏では既に棄教した
元キリシタン大名達に、
ふたたびキリシタン信仰を取り戻すよう
働きかけていたのでは無いでしょうか。

と言ったところで続きはまた次回。
次回はいよいよ、死の真相に迫ります。