⑥奇行と妄言 | アブエリータの備忘録

アブエリータの備忘録

Yesterday is history,
Tomorrow is a mystery,
Today is a gift.
That's why it is called "present".

 

次男の出産時、義母が吐血したのはストレス性の胃穿孔だったと聞いた。

 

 

義母は何年か後にも吐血して近くの病院へ入院して手術をした。当時、子供たちは二人とも小学生で、私は非常勤講師として英会話スクールといくつかの高校を掛け持ちして忙しくしていた。

 

 

義母の手術日には義姉とダンナと私は病院に詰めていたのだが、義姉は私に言った。「麻酔から目覚めた時に、他人がそばにいたら母が可哀そうだからオタクは先に帰ってくれ」と。

 

 

そばで聞いていたダンナが何も言わなかったので私は帰った。

 


入院中、義姉は母に付いていたが、帰宅するたびに大量の自分の洗濯物を段ボールに入れて私に「洗ってくれ」と持ってきた。

 

 

義母の洗濯物は当然私が洗っていたが、付き添ってるだけの義姉の洗濯までなぜ私が?しかも洗濯物は上半身に来ている服は下着から全部一度に脱いで裏向けたまま、下半身のものもパンティストッキングまで全部裏向けたままだった。

 

 

義姉はただただベッドのそばに座っているだけの付添いで何もしていなかった。なんで私がそんなヒトの洗濯までせなアカンの?「自分でして下さい」と断ると、「もうこれが最後だから」と押し付けて置いていった。それ以後は持って来なくなっていた。

 

 

ある日、用事があって社務所へ行ったら、大量に姉の洗濯物が干してあった!ダンナに「なんであんな所に干してあるの?」と聞くと「ワシが洗濯して干した」と。そして私に「おふくろの面倒見てくれてるんやから、それくらいしてやったらええんとちがうか?

 

 

姉をかばうダンナのその感覚にあきれてものが言えなくなった。<本来ならオマエがするべきことを姉さんがしてくれとんのや!>ということだったのだろう。

 

 

義母が入院中だった時に神社の例祭があった。

 

 

この家へ嫁入りした時、義母に「オタクは神社のことはいっさいせんでもええから顔を出すな」と言われていた。

 

 

いつもは義母と義姉が二人でしていたことを義姉が一人でもたもたしていてようで、ダンナはあまりにも手際が悪いから手伝ってやってくれと言いに来た。

 

 

「何か手伝いましょうか?」と社務所へ行くと、「ほなお願いします」とテーブルを拭いていた手を止めて、その台ふきんを私にポンと手渡して、自分はさっさと家へ帰ってしまった!それから今に至るまで全く神社の手伝いをしなくなった。

 

 

義母は消化器系や、婦人科系や、脳梗塞など、何回も入院していた。軽い脳梗塞で近くの病院で入院中、毎日おかずを一品だけ作って病院へ持って行っていた。

 

 

ある日、同室の患者さんに付き添っている付添婦さんが私を呼んだ。「おばあさんに毎日おかず持ってきてはるけど、娘さんが『これは毒が入ってるから食べたらあかん』と言って全部捨ててはるよ。そやからもう持って来んとき』と言ってくれた。

 

 

また、私が見舞ったとき、義母は尿で背中まで濡れていたので、身体を拭いて着替えさせた。義母は固辞していたが、ほおっておくわけにはいかなかった。

 

 

ところが、それを知った義姉は私に怒って「ほっといて欲しい。そんなことしたら風邪ひいてしまう」などと言う!〈オシッコでぬれたままの方が風邪ひくやろ〉。

 

 

義姉が義母に『お母ちゃんの世話は私がするからポンタなんかの世話になったらアカン』と言っていたと付添婦さんが教えてくれた。しかし義姉はほとんど付き添っていなかった。

 

 

要するに私が世話をするのが気に入らないのだ。その理由はあとでわかった。

 

 

ダンナは義姉の世話が不十分なことに気になっていたようで、義姉に「おふくろの金を使って付添婦を雇うなりしてもっとちゃんと面倒見てやれ」と言ったようだ。

 

 

後でわかったことだが、自分のモノにするつもりの義母のお金を独り占めする魂胆だったようで、そのお金を使いたくない、世話もしたくない…とパニック状態になっていったようだ。

 

 

その頃、義姉はしょっちゅう出歩いていて道路のそばに立っていたという。近隣の人からもよく言われた。昼夜を問わず、夜中に国道のそばで見かけた人もいた。

 

 

母親を車いすで病院の屋上まで連れて行って、ほったらかしでどこかへ行ってしまったこともあった。

 

 

そして、アチコチの医院からウチに電話がかかるようになった。「オタクのA子さんが身体がしんどいから点滴をしてくれと来ましたが、精神科に行かれた方が…」と一様に同じようなことを言われた。

 

 

昼夜を問わずあちこちの道路に立っていた義姉は身体が持たずに、近隣の病院へ点滴をしてもらいに周っていたようだ。その頃にはもう我々も病院へ連れて行くつもりだったが義姉はガンとして行かなかった。

 

 

そうこうしているうちに、近くの病院から連絡があって「今点滴に来られてますが、このまま精神科へ運びましょうか?」と言ってもらえて有り難くお願いした。昔はこんなことが通用したんだなぁと今思う。

 

 

そしてそのまま精神科の病院に入院することになった。当時でいう【精神分○病】だ。

 

 

急きょ義姉の下着などを揃えなければならず、初めて義母や義姉の寝室へ入った。義母は入院中だったので義姉が一人で寝起きしていた部屋だ。

 

 

隣りの座敷には山と積まれたジーンズ。その数3,40本はあっただろうか。鏡台の両脇には使ったコットンの山。洗濯するひまもなく衣類は次々と買っていたのだろう。厚化粧で外へ出かけていたので鏡台はひどいことになっていた。

 

 

たった3組の下着と靴下をあっちこっちの部屋で探してやっと揃えた。タンスの抽斗も脈絡なくいろんなものが入れてあるので、全部を開けたり閉めたり…。

 

 

タンスの中に見つけたのが、私が義母へ【母の日】にプレゼントしたもの、日傘やカーディガンやバッグや…。それが全部包装紙のままで置いてあった。

 

 

そして、義母名義の貯金証書や現金ン十万円も。義母名義の証書を合計してみたら相当な額になって驚いた。義姉はこれを減らしたくなかったし渡したくなかったのだろう。

 

 

そしてそして、我々が新築した家について、土地家屋調査士に調べさせた細かい記録があった。ダンナと私の負担額の配分なども記されていた。

 

 

義姉は【法律無料相談日】には必ずいろんなことを相談に行っていて、ダンナは実の姉にこれまで4回も訴えられている。

 

 

精神科の病院で診断されても、義姉は「母の財産を奪おうと弟夫婦が私を禁治産者にするために謀って精神病者にした」と訴えた。この病気によくあるパターンで、改めて県の医師が診察して病名を決定し正式に入院となる。

 

 

この時は5ヶ月くらいの入院で寛解したようで帰ってきた。結婚して12年目にして初めて義姉の異常さが病気のせいだとわかったのだ。

 

 

それまでの私に対する数々の仕打ちが病気のなせる業だと分かった時、私はもう泣くしかなかった。いろいろなことを思い出しながら毎日毎日泣いていた。

 

 

周囲がすでにわかっている異常さは、その家族が一番最後に知ることになるのだ。

 

 

そしてまた開き直った私。