⑤義母と義姉 | アブエリータの備忘録

アブエリータの備忘録

Yesterday is history,
Tomorrow is a mystery,
Today is a gift.
That's why it is called "present".

 

私の結婚生活についてのブログには、タイトルの前に連載回の数字をつけることにした。

 

 

たった3ヶ月の別居から戻った私は、1ヶ月間教習所へ通って運転免許を取得。弟は自分が乗っていた車を格安で譲ってくれた。こうして、実家へもどこへでも送り迎えが無くても、おむつやその他一式積んで車で移動できるようになった。

 

 

義母や義姉の態度は別居後も変わらなかった。当たり前だが、彼女たちにとって(ダンナも含めて)別居は私のワガママのせいなのだから…。しかし、孫(甥)に対する執着にはすさまじいものがあった。

 

 

教習所へ通っている間、義母と義姉は以前より長時間孫(甥)の守りをすることになったが、私が迎えに行く頃には疲れているようでたっぷり皮肉を言われた。〈この人たちはまともに赤ん坊の世話など出来ない。私の目の無い所で遊びたいだけなのだ〉と思った。

 

 

相変わらず、息子が機嫌の良いときだけを狙って連れ去って行く。私はミルクの時間だからと迎えに行くと義母がバナナを噛んで食べさせている時や、カステラを食べさせている時に遭遇。抗議すると、食べさせていないとウソをつく。

 

 

こんなことは嫁姑の間ではよくあるケンカの種なのだが、その件をダンナに伝えたら、ダンナが話に行ってくれたことがあった。ダンナにとって子供の方が大事になったのだろう。母親や姉に育児が出来ないことはわかっていたと思う。

 

 

その時に、義母や義姉が、食べさせてないとウソをついたのは悪かったが、私が「いつも障子の外でヤモリみたいにへばりついて中をうかがっていた」とか「そんなことが合計6回くらいあったからだ」という言い訳をしたそうだ。

 

 

全く身に覚えの無いことで、私がそういう行動をとる人間だと思われていることに愕然とした。

 

 

義母が私に恨み言を言ったり叱責したりするどの場面にも必ず義姉がそばに控えていた。一切口は挟まなかったが、私の様子をつぶさに観察していた。

 

 

義姉はダンナより3歳、私より6歳年上で、我々が結婚したころは33歳だったし、いずれ結婚して家を出て行く人だと思っていた。

 

 

結婚してから道で出会うこともあったが、私を見かけると必ず道路の反対側へ移動して出会わないようにしていた。同じ電車に乗り合わせた時、私は大きなお腹で荷物を持っていたのに、義姉は一つ手前の駅で降りて、私の後から歩いて帰ってきた。

 

 

私が運転免許を取った後、自分も教習所へ通い、普通の倍ほどの時間をかけてやっと免許を取った。私の車でダンナが隣に乗って練習をしていた時、石垣に激突して車はオシャカになり、ダンナは「絶対車には乗るな」と言い渡した。

 

 

息子に手編みのベストを着せていたら、その午後にウチに来て「そんなん着てんと、これ着なさい」と義母が目の前で脱がせて着せる…。義姉がすぐに買いに行ったのだと思った。

 

 

とにかく張り合っていたように思う。そして私は敵視されていた。

 

 

ダンナの家は古くから続いた家ではあるが、本家や分家という遠い親戚以外に親戚が一件も無い。父親は事情があって別宅住まいで、ダンナの家族と言えば母親と姉だけだった。そこへダンナの子供が出来たのだから、愛情が集中するのは無理もない。

 

 

ダンナが腎臓結石で入院した時、義母は付き添い不要の病院でダンナの看護に強引に泊まり込んだ。33歳の男が母親に付き添われて入院?と看護婦さんから笑われていた。

 

 

ダンナの病院へなかなか見舞いに行かせてもらえなかった。「見舞いたいから孫を預かってほしい」と頼むと「30分以内に行って帰って来い」という。長時間の孫の守りはだんだん辛くなってきていたのだと思う。

 

 

私はタクシーを呼んで病院へ行き、ダンナと対面してすぐまたタクシーで帰った。ダンナに持たされた見舞い品を持ち帰ると、「なんで持って帰ってきたのか!」と叱られたりしたが、私の意志ではないなど、この頃にははっきり反論するようになっていた。

 

 

ある日、義母に呼ばれて母屋の勝手口へ行くと、唐突に「オタクがTちゃん(息子)の母親やなかったら出て行ってもらうとこやった…」と言う。義母は前夜に眠れなかったのか、眼がうつろの状態でそんな言葉を浴びせかけた。その後ろにはやっぱり義姉が居た。

 

 

義母は眠れないほど私に対して恨みを溜めていたのかと驚いたが、〈何が理由?〉私には何一つ思い当たる節がない。しかし、家計簿の日記には「義母が逆上」と書いてある日が多かったのをみると、私が別居以前の様には従順でなくなったせいなのだろう。

 

 

別居から戻ってからは、子供のため(そして私のために)にはっきりとNOを言うようになっていた。時にはダンナの不興を買っていたようだが…。

 

 

2歳差で2人目を妊娠した。実家近くの病院で次男を産んだ日、ダンナはなかなか病院へ来なかった。その夜に義母は吐血して入院していたのだった。

 

 

次男を産んで50日目に実家から引き揚げて大津へ戻った。その翌朝6:30に弟から電話があった。「オヤジが死んだ」と。心筋梗塞だった。享年55歳。

 

 

ダンナの家の誰が最も【異常】だったのか?徐々に明らかになる。

 

 

最近よく膝の上へ乗ってくるネコ化したショータ左下矢印