④別居の前と後 | アブエリータの備忘録

アブエリータの備忘録

Yesterday is history,
Tomorrow is a mystery,
Today is a gift.
That's why it is called "present".

 

あの家での生活に耐えられない私は実家にいた。

 

 

別居の話が具体的になってきて、ダンナが実家の両親を訪ねてきた。

 

 

リビングでくつろいでいた父に、あいさつもそこそこに「テレビを消してください」と命じ、続けて出た言葉は「ポンタはわがままです!」だった。

 

 

父も母も息をのんだようだったが、黙ってダンナの話を聞いてくれていた。そして、別居するに際して自分の親に頭を下げて欲しいと伝えたのだ。要するにワガママな嫁のために別居を許すのだがら、きちんと嫁ぎ先に挨拶に来いということだ。

 

 

当日、いつもは家に居ないダンナの父親が来ていて上座に座り、平身低頭で頭を下げる両親に高圧的な態度で接したらしい。(複雑な事情があってダンナの父親は他に家庭があり、この家の当主でさえ無いにもかかわらず)

 

 

悔しさを呑みこんで帰ってきた両親。母は涙ぐみながら「お父ちゃんは『もうポンタを連れて帰ります』と喉まで出かかっているのを必死で抑えてくれたんやで」と言っていた。

 

 

両親は、私とその子供を不憫に思って我慢してくれたのだ。長男が生まれていなかったら離婚していただろうと思う。

 

 

別居先は車で20分ほどの所にあるアパートだった。弟たちにも手伝ってもらってとりあえず身の回りの物を持って移り住んだ。

 

 

義母と義姉の気配がないだけでもずいぶん気持ちが楽になったが、ダンナは終始不機嫌で帰宅も遅かった。ダンナにとっては不本意な別居なので当然なのだが、そのことがまた私の罪悪感を増幅したのだ。

 

 

長男の1歳の誕生日はこのアパートで祝うことになった。義母や義姉の目を気にせず、近くに住む幼馴染の家を訪ねたり、息子を自転車に乗せてアチコチ連れて行っていた。実家の両親も弟たちも足繁く通ってきてくれてたようだ(家計簿の日記によると)。

 

 

別居生活は7月に始まったのだが、9月に入ってダンナは突然「今月末にこのアパートを引き払う」「ワシはあの家の当主やから帰る」「オマエは好きにしたらええ」と言い出した。

 

 

小学校入学くらいまでは別居できるものと思っていた私は「たった3ヶ月しか経っていないのに…」「好きにしたらええって?」、話し合いたいと言ったが「ええかげんいせい!」と取りつく島も無かった。

 

 

またあの生活に戻るのかと思うと…。1歳の息子と二人でアパートの屋上から飛び降りようか…どちらかだけが生き残ったら…重傷を負って不自由な生活になったりしたら…めくるめく思いが頭の中を駆け巡っていた。

 

 

いくら考えても死を選ぶのは間違っているが、とにかくあの家だけには帰りたくなかった。

 

 

そんな風にうろたえている私に目もくれず、ダンナはアパートの3階から一人で冷蔵庫を背負い、洗濯機を背負って引っ越しを進めていたのだ。

 

 

離婚するにしても子供は取り上げられるに違いない。私の都合で連れて出られない。当時の私が子供とともに生きる方法を考えた時、《住み込みの旅館の下働き》くらいしか思い浮かばなかった。

 

 

ダンナの家の長男として生まれた子供をそんな境遇にさせてはいけない。子供と離れたくなければ、成人するまで我慢するしかない。泣く泣く家に戻ることにした。

 

 

そして、私はそこで一大決心をした。

 

 

〈私と子供の人生のために、今後は鬼嫁と言われようが、どんなふうに非難されようが責められようが、私とこの息子を守るために私の思う通りに生きる。成人するまでは必至で耐えて息子を育て上げる〉と。

 

 

今後、家を出るにしても運転免許(修理工場に育ったので免許を取る必要が無かった)を取っておいた方がいいと考えて、アパートから帰った翌月から教習所に通い始めた。

 

 

〈そんなに孫を取り上げたかったらどうぞ面倒見てやってください〉とばかりに義母に息子を押し付けて…。

 

 

開き直って、この家で、自分の人生を自分らしく生きる道を歩き始めた最初の突破口だった。

 

 

こうして振り返って書きながら昔を追体験しているわけでもなく、また怒りを再燃させているわけでもない。この頃にすでに垣間見える問題(病理)を今更ながら確認しているようなものだ。

 

 

ただただ30歳だった私に「よう頑張った!」「よう闘った!」と褒めてやりたい。

 

 

しかし、闘いはまだ始まったばかりだった。