②悲惨な新婚生活 | アブエリータの備忘録

アブエリータの備忘録

Yesterday is history,
Tomorrow is a mystery,
Today is a gift.
That's why it is called "present".

 

結婚前の仕事は外資系の製薬会社の工場で品質管理部長の秘書をしていた。

 

 

お給料はダンナより多かったし、ボーナスなど年間8か月分で高給取りだったが、仕事は結婚と同時に辞めた。大阪から通っている人もいたから、大津からでも十分通える距離ではあった。

 

 

しかし、仕事も主婦もこなせるほど私は器用ではなかったので、専業主婦として子育てをするつもりでいたのだ。

 

 

それに、ダンナの家の跡継ぎの男の子を生まなければ…と思っていた。昔は『三年子無きは去れ』(儒教の夫側からの離婚原因の一つ)という言葉もあったくらいだから、私も3年以内に男の子を生まなければ離縁してもらうつもりでいた。

 

 

こうして、私は嫁ぎ先に染まるべく白無垢綿帽子で嫁入りした。我々の親の世代の考えを守ろうとしていた私だった。

 

 

新婚旅行は、スキューバダイビングが趣味だったダンナの希望で、沖永良部島、徳之島、沖縄へ行った。

 

 

5月の陽射しは強くて、連日海辺へ出かけていた私は、今でいう熱中症(?)のような症状になった。夜になって悪寒が止まらずベッドでぶるぶる震えていたところ…

 

 

ダンナは「新婚旅行やなのになんで相手できひんねん」と言わんばかりに、介抱するでもなく私を置いてバーへ行ってしまった!

 

 

翌日には体調は持ち直したが、やはり前夜のダンナの態度には傷ついていた。

 

 

新生活は、母屋のすぐそばにある平屋の離れで始まった。6畳の寝室、4畳半のリビング、4畳半のダイニングキッチン、そして3畳の書斎。公団住宅と同じくらいの広さだった。

 

 

寝室とリビングのサッシを開けると濡れ縁になっていて、そこに洗濯物を干したりしていた。その濡れ縁に沿って通路があり、義母と義姉は一日に何回もそこを通って裏の古い家へ行っていたので、寝ているすぐそばで足音が聞こえていた。

 

 

800坪ほどある私有地には昔の古い屋敷や蔵が残っていた。一度だけ入ったことがあるが、畳敷きのトイレだけでも4畳半くらいの広さがあった。

 

 

義母はしょっちゅう縁側から我々の朝食中に、「パン食だけではアカン」と、ダンナの分だけの味噌汁を小鍋に持って入ってきた。ダンナは私の前でそれを一人で食べていた。

 

 

ダンナが仕事から帰ってくると、母屋の窓から見ていた義母は走り寄ってきて、玄関から家の奥までダンナについて行き、着替えを手伝いながら話していることも多かった。

 

 

我々が夜に外出すると、帰宅した時に義母や義姉が部屋に入った形跡があっったので、ダンナに鍵を渡さないように言っても聞いてくれなかった。

 

 

義母は、「この煮魚、A(ダンナの姉)がプンと臭うと言うてるけど、どうもないと思うのでオタク食べて」と妊娠中の私に持って来たり、食べかけのロールケーキの残りを「Aがもう食べへんというからオタク食べて」と持って来たり…。

 

 

どうしてこんな仕打ちをされるのか?

 

 

我々の住む離れにはガスで沸かせるお風呂もあるのに、風呂は薪で焚く母屋の風呂に入らされていた。当然私は最後の湯で湯量も少なく、臨月近くの大きなお腹が浸からなかったくらいだ。それに一番イヤだったのは、風呂の湯を二日間替えないので木製の風呂の内部がヌルヌルだったことだ。

 

 

ダンナに訴えても、「おふくろが沸かしてくれてるんやから」と聞く耳を持たなかった。

 

 

長男が生まれてからやっとウチの風呂を使えるようになったのだが、子供を入れる前の早い夕方に義母と義姉が次々と入りに来ていた。二人の入った後のお湯は濁って毛が浮いていたりして気持ちが悪かった。

 

 

しかし、このお風呂が沸くには50分もかかり、お湯を落として炊き直すわけにはいかなかったのだ。《もったいない》というのが理由だった。

 

 

その頃、義母や義姉のことをダンナにはいちいち伝えていなかったと思う。言っても「おふくろはそんな人間やない」とかえって私が責められたからだ。

 

 

子供が生まれてからは義母と義姉の干渉と仕打ちはひどくなり、私はどんどん心を病んで行った。

 

 

今日はライ麦パン(60グラム)を焼いた左下矢印とてもいい焼き色!