母との話 | アブエリータの備忘録

アブエリータの備忘録

Yesterday is history,
Tomorrow is a mystery,
Today is a gift.
That's why it is called "present".

 

実家へは2週間毎に顔を出すようにしている。

 

 

91歳の母は、退院後は特に不自由さも無く、大音量でテレビを観て、週に2日のデイサービスも案外楽しんでいて、元気に過ごしている様子。耳が遠くて怒鳴らなければ会話ができないが実にしっかりしている。

 

 

これまで、母とは価値観が違いすぎて話にならなかったので、以前は月一回のご機嫌伺いの時は、父の仏壇に手を合わせて、母へのお小遣いとしてのお供えを置き、タブレットで孫たちや愛犬の写真や動画を見せたら30分も居ずに帰っていた。

 

 

しかしながら、やはり着実に老いが進んでいるようなので、最近は今まで話さなかった話もするようになった。

 

 

ダンナの話もついぞしたことが無かった。少し愚痴っぽい話をすると必ず、「アンタが選んだ人や」と聞く耳をもたなかったからだ。このヒトの辞書には「共感」という言葉が無い。

 

 

昭和一桁生まれの母親を持つ我々の同級生は、皆一様に母親の価値観の頑なさを嘆いている。子供の個性に関係なく世間の常識というモノサシで可か不可を判断する。

 

 

我々は見合い結婚なのだが、ウチの母とダンナの会社社長の奥様が「娘がまだで…」「会社に独り身の男が居て…」と、見合いをさせようという話になったのだ。だからダンナとの縁には母が一枚噛んでいて、責任の一端を担っているのだ。

 

 

ダンナの暴言と夜中に閉め出された一件を話した時、母は、「おかあちゃんはようわかるわ。何かにつけてアンタの方が優秀やから、そんな言い方をして勝とうと思てはるんや。あんな家に生まれたからプライドだけは高いんや」と言うではないか!

 

 

私は母の言葉をずいぶん意外な思いで聞いていた。母のそんな視点は初めて聞いた。今までは娘の婿さんとして義理堅く接していたのだが…。

 

 

古い家計簿の日記に、父や母や弟たちがよく私を訪ねて来てくれて、実家への送り迎えをしてくれたり、百貨店に連れて行ってくれたり、幼い息子を公園へ連れて行ってくれたりしてたことも話題にした。

 

 

すると、「あの頃はお父ちゃんが、しょっちゅう(娘が)可哀そうであの家から連れ戻してくると言うては泣いてはった」と言うので驚いた。母の記憶がどれほど確かなのかはわからない。

 

 

しかし、父は、私が実家に頻繁に帰って長居をしても「早く帰れ」とは一度も言わなかった。両親に具体的に婚家の仕打ちを喋った記憶はないのだが、世間離れした婚家先の異常さには気が付いていたようだった。

 

 

「アンタのダンナはホンマに変わった人やと思ってたし、ホンマに変わってはるわ」それに、ダンナの両親からもひどい言い方をされたこともあったらしい。

 

 

父も母も弟たちも、私を哀れと思って頻繁に訪ねて来てくれていたのかもしれない。そのことで私は義母からずいぶん皮肉を言われたりした。実家へ帰る時は必ず孫に「早よ帰っておいでや」と言っていた。

 

 

実家から戻って来る時、家が近づいてきて近江大橋を渡る頃になると、帰りたくなくてポロポロ涙を流していたのを覚えている。

 

 

ずっと昔なら、私のような生まれの娘がとても結婚などできなかっただろう家に嫁入りしたということで、そのことに関しては父も祖母も自慢にしていたらしい。母は「アンタがあの家へ嫁に行ったことでお父ちゃんにもおばあちゃんにも孝行したんやで」と言った。

 

 

そんなことを思うから、私はどんなにつらくても婚家を出たりするなんてことはとても出来なかったのだが…。

 

 

「そやけど、よう我慢したなぁ」と、初めて母が私の気持ちに沿った言葉をかけてくれた。なんだか報われたような気がした。

 

 

周囲がとうに気が付いていることを、私は…。

 

 

母は、孫たちよりもショータに会いたいようで、写真や動画を見せると画面をなでながら「ショータ、会いたいわ」と涙ぐんでいる。

 

 

ショータを車に乗せての移動は本当に大変なのだが、近いうちに連れて行ってやろうかと思う。

 

日当たりを上手に探すショータ左下矢印

 

 

眠る時間が長くなったショータ左下矢印