⑦義姉の病 Part 1  | アブエリータの備忘録

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Yesterday is history,
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Today is a gift.
That's why it is called "present".

 

義姉が精神病院に入院した時に聞いた診断結果などから、精神分○病(統合○調症)は思春期に発症したと考えられるとのことだった。

 

 

義姉の高校生時代の担任から『この子は自殺する危険がある』と言われて、その頃から義母は娘の言いなりになってしまったらしいが、それは間違った観点だったようだ。

 

 

故人を悪く言いたくはないが、複雑な家庭事情の中で息子を溺愛していたダンナの母親は、優柔不断な人だった。そうして生きるしかないという義母の処世術だったかもしれないが、ダンナは叱られたことが無かったそうだ。

 

 

義姉は、どの職場でも被害妄想のために長続きせず、私が結婚したころから今に至るまでずっと無職。義母とお神酒徳利のようにいつも二人で行動していた。

 

 

前回義姉が入院した時、私は初めて母屋の寝室や茶の間や台所に入った。座敷には入ったことがあって、元旦にダンナと二人でおせちをいただいていた。義母と義姉は一緒に食べず、2人が見守る中、ダンナと私が出された御膳をいただくというもの。喉を通るわけがない。

 

 

入院後に入った母屋の台所には焦げた鍋ややかんが積み上げられていた。鍋ややかんを火にかけたまま、幻聴によって呼び出されて飛び出していたようだ。

 

 

たまに義姉から、「今外出中だが、家に行ってやかんが沸騰している音が聞こえないか聞きに行ってくれ」と言われたこともあった。

 

 

茶の間にはチラシの裏の白い部分に書かれたメモが何十枚もあった。メモには私の日々の行動や言動が書かれていて、実家の母のことを【ババァ】とという名称で書いていた。

 

 

病理の深さを全く感知できなかったダンナと私、そして義母。義母は義姉の傀儡であり犠牲者だったのだ。

 

 

私に暴言を吐く時に、半分眠っているような眼だったのは、義姉が一晩中義母を「ポンタにこう言え、ああ言え」と責めていたということだったらしい。

 

 

義姉は、私が財産目当て(土地はあっても貧乏だったのに…)で嫁に入ったと思い込んでいたようで、私を追い出そうという意図を持っていじめていたのだと思う。

 

 

結婚12年目にしてそれが明らかになった時、全て病気のなせるワザゆえに誰も責められず、私はひたすら泣くしかなかったのだ。

 

 

義母が入院中のお正月に、義姉は義母の外泊を拒んだので、母屋の庭に新築したばかりの我々の家に義母を迎え入れた。

 

 

その時、義母は私に涙ながらに謝った。「娘(義姉)のことを許してやってね。あなた方のことが羨ましくてへんねし(嫉妬ねたんでする意地悪の意味)を起こしてただけなんやから。長い間悪かったね」と。

 

 

そして、2泊3日だけの滞在だったが、病院に帰る時に私の手を握って「この3日間は私の人生で一番幸せな時間やった。ありがとう」と泣きながら言ってくれた。

 

 

義母は義姉の病気の何たるかをはっきり知らないままだった。

 

 

長く続いた血は病んでくるというが、私は自分の息子たちにその病が出現しなかったことが本当にありがたかった。義姉がそれを一人で背負ってくれたのだと思った。

 

 

義姉は診断された病気だったが、ダンナはグレーゾーンだったのではないか…。

 

 

今日の空を見上げて: