『言葉の意味は空疎』というブログを読んだ。
ブロガーさんの記事は哲学的な解釈なのだが、私自身の卑近な例と照らし合わせて、ダンナとの間に行きかう言葉を考えた時、そこに容易には真意を見出せないのと同じだと思った。
話す本人や書く本人が、自身の能力を最大限に使って表現しても、相手によっては全く伝わらない。ひどいときには曲解さえされる。
何年もの間にダンナの発した暴言の数々は、時々に内容は多少変わってもその意味するところは同じだと私は受け止めている。またそれらを裏付けるダンナの態度や行動から、ダンナの真意はこうに違いないと私は決めつけている。
反対に、私の行動や言動を【異常】と感じるダンナもまた、ダンナにとってはそれが私の真意なのだ。
ブロガーさんの記事のこの文章が今の私に響いたのだ。
「どう考えても言葉というものは空疎なのである。私たちは言葉の真意と言うものには到達できない…」
イマイチ深く掘り下げることは出来ないが、なんとなく納得しながらそんなことを考えていた時、友人(Aさん)から電話がかかってきた。
私がダンナとのことに関してそんな考えを巡らしている頃、Aさんのことをしきりに思い出していた。彼女はもう何年も前にそのことを悟って婚家を出て別居しているからだ。
久しぶりに電話をしてくれたAさんは今年の年賀状に「ポンタさんのことがとても気になっています」と書いてくれていた。そして今回の電話は「ポンタさんが夢に出てきたから…」と心配してかけて来てくれたのだ。以心伝心?
Aさんは、田舎の名家に嫁いだものの、とても同じ屋根の下では暮らすことができず、離婚しないまま別居状態をもう20年以上続けている。「夫とは話が通じない」と。
我々の夫たちに共通するのは、悪い人ではないこと、跡取り息子であること、父親のモデルがいないこと、母親に溺愛されて自分が一番なこと、…等々、なのだが、やはりそういう家庭環境の中で育んでもらえなかった何かが欠損しているのだろうと二人で納得し合った。
別居という方法で自分の心を救ったにみえるが、婚家を離れていることに付随する数々の気苦労は彼女の心身を安定させてはいない。
≪時空を共有しないこと≫は不可欠の方法で実践している。しかし、事務的な会話はできても、ダンナの話す言葉を信じられなくなってしまっているのも確か。
さて、心地よく暮らすための方法はまだ手探り状態だ。
今日はグラハム粉(50g)を入れたパンを焼いた。ずいぶん膨らんだ。